断章298

 「インテル。入ってる?」。パソコンの普及期には、このCMをよく見たものだ。

 インテルの伝説的な経営者アンドリュー・グローブは、こう言った。

 「パラノイア(病的なまでの心配症)だけが生き残る。これは、私のモットーである。

 事業の成功の陰には、必ず“崩壊の種”が潜んでいる。成功すればするほど、その事業のうま味を味わおうとする人々が群がり、食い荒らす。だからこそ経営者は、常に外部からの攻撃に備える必要がある。それが、最も重要な責務だ。

 パラノイアのように神経質になってしまうことは色々ある。例えば、製品に問題がないか、士気が落ちていないか、競合企業の動きはどうか……。

 しかし、こうした懸念も、『戦略転換点』に比べれば大したことはない ―― 。

 戦略転換点とは、『企業の生涯において根本的な変化が起こるタイミング』のことだ。その変化は、企業にとって新たな成長へのチャンスであるかもしれないし、命取りになるかもしれない」。

 

 1985年のプラザ合意が、日本の「戦略転換点」だったのだろうか?

 戦後日本の高度経済成長は、エズラ・ヴォーゲルによって『ジャパン・アズ・ナンバーワン』と呼ばれるほど、目覚ましいものだった。

 「日本車の輸入増加でアメリカの自動車産業は大きな打撃を受け、アメリカの対日貿易不均衡についての反発が強まり、市民からメディア、政治家まで、アメリカ中で日本に対する抗議や日本を非難する言動が広がった」(WIKI)。

 「1985年、プラザ合意の中心は、アメリカの対日貿易赤字が顕著だったため、実質的に円高ドル安に誘導する内容だった。

 発表翌日の9月23日の1日24時間だけで、ドル円レートは1ドル235円から約20円下落した。1年後にはドルの価値はほぼ半減し、150円台で取引されるようになった。

 急激な円高により、『半額セール』とまでいわれた米国資産の買い漁りや海外旅行のブームが起き、賃金の安い国に工場を移転する企業が増えた。とりわけ東南アジアに直接投資する日本企業が急増したため、『奇跡』ともいわれる東南アジアの経済発展をうながすことになった」(WIKI)。一方、それはその後の日本国内の空洞化、雇用の非正規化、国内賃金の低落につながった。

 

 そして今回のコロナ禍である。これは、日本の新たな「戦略転換点」なのだろうか?

 コロナ禍は、日本と日本企業にとって新たな成長へのチャンスであるかもしれないし、命取りになるかもしれない。

 不安なことは、今回も又、日本の政治家には、「パラノイア(病的なまでの心配症)」が不在のように見えることである。