断章268

 「わたしたちは何者なのか」「人類の過去を研究するのは、美術や音楽、文学、あるいは宇宙論の研究と同じように不可欠なことだ。なぜなら、人類が共有するさまざまな側面に気づかせてくれるからだ。極めて重要でありながら、これまでは想像もしなかったような側面に」(デイヴィッド・ライク)。

 

 「2001年、ヒトゲノムの塩基配列が初めて決定された。その化学的な文字の大多数が解読されたのだ。2006年にはDNA文字列を読む自動解析装置が売り出されて解読コストが1万分の1になり、すぐに10万分の1になって、さらに多くの人のゲノムのマッピングが安価にできるようになった。こうして、ミトコンドリアDNAのような少しばかりの孤立した配列の比較だけでなく、ゲノム全体の配列の比較が可能となり、それをもとに各人に伝わる無数の系統を復元できるようになった。これは人類の過去についての研究に革命をもたらした」(注:分子生物学の立場からは、すべての生物を一元的に扱いたいという考えに基づき、ゲノムはある生物のもつ全ての核酸上の遺伝情報としている)。

 「ゲノム革命が圧倒的な成功を収めているのは、ヒトの生物学的特性を説明するというより、ヒトの移住を明らかにする分野だ。この数年、古代DNAによって加速されたゲノム革命は、誰も予想しなかったほど、ヒトの集団が互いにつながり合っていることを明らかにしている。浮かび上がってくる物語は、わたしたちが子供のころ学んだことや、大衆文化から取り入れたことと違っている。多様な集団の大規模な混じり合いと、広範囲の集団置換と拡散に満ちた驚きの物語だ」。

 「私たちは今日地球上にいる唯一の人類、すなわち現世人類に属する。人類のサブグループのひとつである現生人類は5万年前ごろより後にユーラシア全域に広がって、他の人類を駆逐、あるいは絶滅させた。〈中略〉しかし4万年前ごろまでは、世界には多様な旧人類が住んでいて、姿形は私たちと異なるものの、直立歩行し、私たちと共通する多くの能力を持っていた ―― 例えば、ネアンデルタール人もルヴァロワ技法として知られるやり方で石器を作った。この技法には、高い認知スキルと器用さが要求される。慎重に選んだ石核から薄片を打ち落として、最初の形とはまるで違う形の道具にしていくため、作り手は最終的な道具の形を頭の中に明確に描いたうえで、複雑な工程をたどって、目指す形を完成させなければならない。そうした旧人類とわたしたちの間にはどんなつながりがあるのだろうか。考古学的記録では、そうした疑問に答えることはできない。だがDNA記録ならできる」。

 「40万年前ごろのヨーロッパで一番幅を利かせていたネアンデルタール人と現生人類との出会いについては、確かな科学的証拠がある。出会いが、ヨーロッパだけでなく中東でも起こっていたのはほぼ間違いない。7万年前ごろ以降、強くて勢いのあるネアンデルタール人集団がヨーロッパから中央アジアへ進出して遠くアルタイ山脈に達し、中東にも入り込んだ。現生人類はアフリカに退いた。しかし、現生人類は6万~5万年前ごろ中東に戻ってきて、ネアンデルタール人を追い出し、その後は、ネアンデルタール人が敗者となり、中東だけでなく、やがてはユーラシアの他の場所でも絶滅してしまった。二つの集団は交配したのだろうか?」。

 

 「今ではネアンデルタール人との交配の証拠がヨーロッパ人だけでなく東アジア人やニューギニア人でも確認されている。

 いったいどこでネアンデルタール人と現生人類は出会って交配し、ヨーロッパだけでなく東アジアやニューギニアまで広がる集団を生んだのだろうか。考古学者は、中東では13万年前から5万年前の間に少なくとも2回、ネアンデルタール人と現生人類が優勢な集団としての地位を交代していることを明らかにしており、この間に両者が出会ったと考えるのが理にかなっている。こうして中東で交配が起こったと考えると、ヨーロッパ人と東アジア人が、共にネアンデルタール人のDNAを受け継いでいることがうまく説明できる」。

 「遺伝学的データからすると、アフリカ外の現生人類がアフリカから出て世界中を席巻したグループの子孫であることは明らかだが、いくらか交配があったことも、今ではわかっている。

 ネアンデルタール人は想像していたよりもわたしたちに似ていて、たぶん、わたしたちが現生人類特有のものと考えている行動の多くを行う能力があったと考えられる。文化の交流があったに違いないし、それに伴って交配も起こっただろう。ネアンデルタール人からは生物学的な遺産、たとえばユーラシアのさまざまな環境に適応するための遺伝子などが非アフリカ人に伝えられたこともわかっている。〈中略〉

 今では、ネアンデルタール人と現生人類の交雑集団がヨーロッパさらにはユーラシア全土で生きていたこと、その多くはやがて死に絶えたが、一部は生き残ってこんにちの多くの人々の祖先となったことがわかっている。現生人類とネアンデルタール人の系統が分かれた時期もだいたいわかっている。そうした系統が再び出会ったときには、生物学的な不適合性の限界に達するまで進化していたこともわかっている。そこで次のような疑問が湧いてくる。ネアンデルタール人はわたしたちの祖先と交配した唯一の旧人類だったのだろうか?

 それともわたしたちの過去にはほかにも大規模な交配があったのだろうか?」(『交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史』を抜粋・再構成)。