断章236

 ネズミ男は、大洋に浮かぶ小さな「動物王国」に住んでいる ―― この「動物王国」は、大陸にある『動物農場』(G・オーウェル)に自国経済(儲け)の大きな部分を人質に取られているので、言うべきことも為すべきことも中途半端な、国らしくない国である。また、「動物園」(そこには、エサを与えられるので、日々、戦う“気概”を失いつつあるオオカミがいる)のようでもある。今どき「狼生きろ、豚は死ね」なんて言えば、“ポリティカル・コレクトネス”で武装したアタマでっかちな人たちから、「時代錯誤の動物差別。レイシスト」と指弾されるかもしれない。“紅葉狩り”より“言葉狩り”が流行る時代である。それはさておき。

 

 戦後日本のマルクス主義日本共産党に同伴する理論(思想)界隈では、2回、大揺れがあった。

 一度目は、1956年ハンガリー動乱のときである。「ハンガリー国民が政府に対して蜂起した。彼らは多くの政府関係施設や区域を占拠し、自分たちで決めた政策や方針を実施しはじめた。駐留ソ連軍は1956年10月23日と停戦をはさんだ1956年11月1日の2回、このような反乱に対して介入した。1957年の1月にはソ連邦は新たなハンガリー政府を任命し、ハンガリー人による改革を止めようとした。蜂起は直ちにソ連軍により鎮圧されたが、その過程で数千人の市民が殺害され、25万人近くの人々が難民となり国外へ逃亡した。ハンガリーでは、この事件について公に議論することは、その後30年間禁止されたが、1980年代のペレストロイカ政策の頃から再評価が行われた。1989年に現在のハンガリー第三共和国が樹立された際には、10月23日は祝日に制定された」(WIKI)。

 このとき、後に「過激派」と呼ばれるようになった「反日共系」セクトの源流が生まれた。彼らの合言葉は、「マルクス(とりわけ初期マルクス)に帰れ」であり、共産党の「スターリン主義」を批判した。日本共産党は、彼らを「反党反革命トロツキスト」と悪罵して石を投げた。当時の日本共産党スターリンに対する公式の立場を、今はもう忘れられたであろう榊 利夫の『現代トロツキズム批判』(1968年初版、新日本新書)でみておこう。

 「スターリンは、レーニン亡きあと、帝国主義の包囲下で、外部からの攻撃の脅威を受けている状況のもとで、ソ連の党と人民を指導しつつ、社会主義を建設する事業をすすめた。また、コミンテルン当時の国際共産主義運動においても、たとえば反ファッショ統一戦線など、すぐれた指導的役割をはたした。第二次世界大戦において、日独伊のファッショ的、軍国主義的枢軸を打ち破るうえでのスターリンの戦略・戦術の功績は現代世界が正当に評価しているものである。

 理論面においてもトロツキーブハーリンジノビエフその他の『左』右両翼の日和見主義的偏向とたたかって、マルクスレーニン主義の諸原則をまもり、党を守り固め、また、民族・植民地問題などで一定の理論的貢献をおこなったほか、ポピュラーな理論的活動でもすぐれたものがあった。ソ連社会主義および国際共産主義運動にたいするスターリンの積極的役割と地位は、歴史的に正確な評論が必要であり、その身ぐるみ否定は不毛でしかない」。

 二度目は、1991年の旧・ソ連崩壊のときである。このときも、かなり揺れて、部分的なレーニン批判やエンゲルス批判にまでは踏み込んだ。それも結局のところ、「マルクスに帰ろう」ということで終息したのであるが、一度目と比べれば、小さな揺れにすぎなかった。「スターリン批判」から40年後に、いまさら“実践的唯物論”を持ち出されてもね~、なのであったから。

 結果、日本のマルクス主義日本共産党に同伴する理論(思想)界隈に生息するものは、マルクス聖典(教説)の解説で飯を食う“腐儒”(気力も意欲もない、くされ学者)だけになった。なので、たまに白井 聡のような若い(未熟)のが出てきて『武器としての資本論』なんてタイトルの本を書くと、大喜びしてもてはやし、天狗にさせてしまうのである。

 

 昨今、人々はマルクス主義共産党を「死んだ犬」のように扱っている。

 ネズミ男は違う立場に立つ。マルクス主義共産党は、現代の「水に落ちた狂犬」である。ネズミ男は、マルクス主義共産党を、たとい岸にいようとも、あるいは水中にいようとも、すべて打つべき部類だと考えている。というのは、その性格・性情は依然として変らない。マルクス主義共産党は、油断していると、かならず岸へ這い上がってきて、必ずまた人に咬みつくからである。

 

 マルクスには学べることがある(当然、フョードル・ドストエフスキーシモーヌ・ヴェイユたちにもある)。しかし、そのことと、経済的社会構成体の歴史的進化により必然的に共産主義(地上の楽園)が到来するという“マルクスユートピア”を信認することの間には、「踰(こ)ゆべからざる巨大な径庭がある」ことを知らなければならない。“ユートピア”を約束する思想・イデオロギーは、“ディストピア”を、“キリング・フィールド”を産むからである。