断章234

 「人間とは何であり、何であるべきか」、そして短期的な逆流や局地的な抵抗があったとしても、大局的に、「わたしたちはどこから来て、どこへ行くのか」という自問自答は続く。

 

 近現代、すなわち19・20世紀を検討する前に、また18世紀を一瞥しておこう(ウィリアム・H・マクニール『戦争の世界史』を抜粋・再構成することで)。

 

 「18世紀前半のヨーロッパは経済的好況に恵まれた。この好況は政府がとった何らかの政策によるというよりは、長年にわたって豊作が続いたことと、新大陸原産の作物 ―― なかでもトウモロコシとジャガイモ ―― がヨーロッパに普及して広く栽培されるようになったことに起因することは間違いない。だがそれでも、1714年にスペイン継承戦争終結したのち40年あまり続いた比較的平和な時期に、西はアイルランドから東はウクライナの平原までヨーロッパ全域にわたって経済成長がおこった」(前掲書)。

 

 その頃登場してきたのは、1701年に成立したプロイセン王国である。

 「プロイセンの政治的成功の基礎は、単に領土の広さではなく、他国にまさる厳格さで国家を戦争のために組織化しおおせたことであった。(中略)

 国の貴族階級と軍の将校団とを一体化するという特異な国柄を作った。(中略)

 将校も兵士もひじょうにつましい、というかみすぼらしい耐乏生活をしていたが、集団としての『名誉』の精神と、義務の感覚によって、プロイセン陸軍は、ヨーロッパの他のいかなる軍隊も足元にも及ばない水準の効果的戦力 ―― と低コスト ―― を達成した」(前掲書)。

 「1740年に即位した『大王』フリードリヒ2世は、『兵隊王』と呼ばれた前王がつくりあげた軍隊を増強して苦しい戦いに耐え抜き、『大王』の治世の間にプロイセン王国の領土と人口は約2倍に、常備軍は22万になった」(Wiki)。

 

 「ロシアの毛皮商人は、・・・シベリア全土を踏破して早くも1741年にアラスカに渡った。・・・シベリアの広大な荒野の征服は地図の上ではひじょうに印象的だが、実はそれよりも、ウクライナとその周辺のステップ地帯穀物栽培農民が占拠したことの方がずっと重要であった。それらの労働により、18世紀のあいだにヨーロッパの食糧生産はひじょうな増加をとげ、人口の面でも物資の面でも、ロシア帝国の成長のための土台が築かれた」(前掲書)。

 ロシアは、プロイセンオーストリアを指向している隙に、「かつてピョートル大帝がヨーロッパの方式にしたがって成功裡に改造した軍隊を駆使して、ロシアの国境に隣接する、弱体で組織化の度合いも低い諸国家をつぎつぎと併呑して膨張することができた。1772~95年にはロシアは亡国ポーランドの最大の切り身をさらっていった。1783年にはクリミアを併合した。オスマン帝国に対しては1792年までに、東においてはコーカサス地方にくいこみ、西においてはドニエストル川まで、それぞれ領土を拡大した(引用者注:プーチンのロシアは250年あまり昔の女帝のロシアとご同様の行動様式である)。

 フィンランドへも、スウェーデン人の勢力を排除して進出した(179 2年)。ウクライナにおける穀物生産の急速な発達と、ウラル地方とロシア中央部での商工業の成長とが相まって、帝国の力が空前の高みに達するのを助けた。大エカテリーナ女帝(1762~96年)のもとで、ロシアはそれ以前とは面目を一新した組織力で、人員、原材料、耕地などの資源を動員してその陸海軍を維持し、その軍隊は西ヨーロッパ諸国の陸海軍にもたいしてひけをとらない効率性の高さを達成したのである。いいかえればロシアは、組織化の度合いにおいてヨーロッパの水準に追いつきつつあったのであり、そうなればたちまち巨大国ロシアの物量がものをいいはじめた。(中略)

 だが、ロシアの場合は、資源の動員は究極的には、国家官吏と国家の特許を受けた民間業者とからなるエリートの命令で動く農奴労働にもとづいていた」(前掲書)。

 

 同じ頃、「世界の他の部分では王侯たちは依然として民間資本を、財産没収同然の重税を課するための誘惑的な当然の標的とみなすのが普通であったときに、西ヨーロッパ、とくにイギリスやフランスでは、王侯とその官僚たちと、資本家や起業家たちの間には、意識的な協力関係が成立していることの方が常態となった。そこでは、税率に厳密な限度を設けて、定額の税金を広く公平に徴収することにより、民間の富と税金収入とを双方ともに増やすことができるのだと考え、その信念に立って行動するようになっていた。

 本国での王侯たちと資本家との協力関係におとらず密接だったのが、海外での両者の協力であった。じっさい、18世紀におけるヨーロッパ人の商業的拡大の最重要の秘訣は、かれらが自分の身体と財産とを比較的低いコストで保護することができたことだった。それはひとつにはヨーロッパ人の作る船舶と要塞の技術的優越と、それと組み合わせられた鉄製大砲の数と相対的な安価さによるものであった。そしてそれと同じくらい、ヨーロッパ人商人の保護コストを低めるうえで決定的であった要素は、ヨーロッパ式に訓練された部隊、将校、文民行政官がごくふつうに示した、卓越した組織力と規律であった」(前掲書)。その力は、海外現地の戦いで歴然と示された。

 「優勢な軍事力と、ほとんどあらゆる束縛を脱した商業的私利の追求とは、18世紀のヨーロッパ(注:とりわけイギリス)の海外事業を特徴づけたひとしく顕著なふたつの性格であった」。

 

 「ロシア式の指令による辺境資源の動員と、イギリス式の価格誘因(=商業的私利追求)によるその動員とは、対極というよりはむしろ程度の差であった。だが、強制の程度の差は重要な結果を生んだ。ロシア式のやり方は(砂糖生産諸島における奴隷経済もそうだが)しばしば人間労働を浪費する傾向があり、これとは対照的にイギリス式の民間企業の利潤最大化の努力においては、いかなる生産要素の使用量も、節約すれば必ずその分だけ見返りがあるのが常だった。ことばをかえれば、市場志向的行動様式は、強制によってはめったに達成できない高水準の効率性へむけて経済行動を誘引したのである。(中略)

 イギリスの経済運営システムにおいては、自由な市場の動きに対する反応度が高かったために、生産に大幅な改善をもたらすことのできる新しい技術が頻々ととりいれられたのに対し、ロシアにおいては、新しい技術革新を生み出したり普及させたりしようとする機運は、せいぜい散発的に起こったにすぎなかった。(中略)

 市場志向的行動様式には、技術革新が起こればすぐさま旧技術をとりのけて道をあける卓越した柔軟性が備わっており、その結果、最終的にはイギリスと西ヨーロッパ諸国一般が、経済的・軍事的な効率性をロシアや東ヨーロッパ諸国が追いつけないレベルまで引き上げ」(前掲書)たのである。