断章202

 ルドルフ・ヒルファディングは、「1940年の一論文で、ソ連全体主義国家と特徴づける。ソ連が資本主義でも社会主義でもないと考える。社会主義でないというのは、そこには社会主義と不可分な自由と民主主義がないからである。ソ連はむしろ、国家権力が絶対化し経済の性格を規定する全体主義である」(上条 勇)と規定した。

 

 ―― ヒルファディングは、「オーストリア出身でドイツ社会民主党の政治家であり理論家だった。1910年、当時の資本主義経済の発展にたいしてマルクス経済学の観点から、主著『金融資本論』を著した。1933年、ヒトラー内閣が成立すると、フランス・パリに亡命。1940年6月、フランスはドイツ軍に占領された。マルセイユでヴィシー政府(引用者注:ドイツに協力したフランス政府)の警察に逮捕され、ドイツの国家秘密警察(ゲシュタポ)に引き渡され、1941年2月、フランスの刑務所で死体となって発見された」(Wikipediaを再構成)。

 ちなみに、わたしは、旧・ソ連が「社会主義」だったとは、1ミリも思わない。全体主義国家だった。そもそも共産主義社会、“地上の楽園”は、在りえないユートピアなのである。

 

 旧・ソ連崩壊後、「共産主義」を放棄して資本主義への道を進もうとしたロシアにあったものは、無秩序と混乱だった。というのは、共産党の長年にわたる監視と密告の支配によって、ロシア社会は相互不信の“低信頼社会”と化していたので、現出したものは詐欺と恐喝と暴力と強奪のマフィア社会だったからである。この無秩序と混乱が、プーチンの強圧的な独裁による秩序と安定を呼び出した、といわれる。

 

 もっとも、E・トッドによれば、ロシアが、「家族システムとしての『外婚制共同体家族』とロシア北西部(ノヴゴロド公国)がバルト海経由の直系家族原理の影響下にあった」ことが、かつてソ連という「共産主義」体制を誕生させ、さらにプーチンの「権威主義」体制を呼び出した歴史的社会的(基底的)な原理なのである(『家族システムの起源』など)。

 

 「1977年、ソ連は『ブレジネフ憲法』と呼ばれる新憲法を発布した。その前文では『プロレタリア独裁』の段階はすでに終了し、一党独裁国家が今や『全人民の国家』になったと高らかにうたい上げた。そうすることで、ソ連が国家として抱いていた幻想が現実とはほど遠かったにもかかわらず、それを憲法として正式に追認することとなった。その幻想とはブレジネフ書記長や当時の共産党指導部がソ連について抱いた理想であり、一般市民の知る真実とは大きな隔たりがあった。

 意図的ではなかったのかもしれないが、プーチン大統領もブレジネフ氏とまさに同じ事をしたといえる。1993年に制定されたロシア憲法の200項目以上を改正することへの賛否を問う国民投票を仕掛けたのだ。この憲法改正案はクレムリン(ロシア大統領府)が1週間、派手なイベントをいくつも繰り広げながら実施し、7月1日に賛成多数で承認された。

 こうした一連の手続きはロシアが近代的で法の支配を尊重する国家であるかのような幻想を抱かせる。だが、1977年のブレジネフ憲法ソ連国民の実感から乖離(かいり)していたのと同じように、今回改正された憲法もロシアの現実からかけ離れている。

 国民投票の公式集計によると、賛成票は約78%に上った。だが、反プーチン派は投票にいくつも疑わしい点があったと指摘する。有権者は政府の大々的なプロパガンダにあおられ、クレムリンの指図通りに行動するよう圧力をかけられる一方、賞品が当たるくじ引き大会や大道芸人のショーなど政府の策術に惑わされ、投票所へ足を運ぶよう仕向けられたという。1989年までソ連共産党政権下で実施された選挙と同じように国民投票出来レースになることは、プーチン氏が1月の年次教書演説で憲法改正に意欲を示した時点でロシア国民には分かりきっていた。

 だが、この国民投票には憲法改正を実現させる以上に政治的な狙いがあった。プーチン氏は20年前にロシアの最高権力を手にして以降、政治的な自由を制限し、法による支配を弱める方向に自国を導いてきたが、それでも国民がプーチン氏を支持しているということを国内外に明らかにするための儀式として国民投票を利用したのだ。

 もっとも、すべてがプーチン氏の思惑通りに運んだというわけでもない。どうやらモスクワとサンクトペテルブルクでは、憲法改正への賛成が過半数に満たなかったもようだ。この2大都市は帝政ロシア時代や共産党政権時代にも多くの反体制派を生み出してきた。それは現在も変わることなく『プーチン主義』に批判的な中産階級のよりどころとなっている。

 物心ついてからプーチン氏以外の指導者を知らない若い世代も国民投票のキャンペーン期間中、公然と不穏な動きを見せた。ユーチューブに有名人のインタビュー動画を投稿して人気を集めるユーリ・ドゥド氏(33)は、国民投票について『恥ずべきことだ』とインスタグラムに投稿し、100万件を超す『いいね!』を集めた。

 ロシアでも比較的若い世代になると、国営メディアが熱心に情報工作しても容易には感化されない。政府の監視が届きにくいネット上の番組ばかり見て生活しているためだ。ブレジネフ時代の若者が闇市で欧米製のジーンズを買いあさり、ビートルズの歌詞を覚え、ソ連共産党政権がくどくどと説いた『発達した社会主義』など気にも掛けなかったのとよく似ている。

 プーチン政権の支持基盤はモスクワやサンクトペテルブルクほど発展していない地域に住み、経済的に余裕がなく暮らしに窮した人々が今や大半を占めている。プーチン氏が2000年に初めて大統領に就任してから10年間、ロシア国民の生活水準は原油価格の高騰を背景に急速に向上したが、このところの急激な原油安で多くの人々が経済的な苦境に陥っている。だからこそ、クレムリンは年金の物価スライドを定期的に実施するなど社会保障を手厚くする項目を今回の憲法改正案に盛り込み、それを国民にことさら強調したのだ。

 一方で、プーチン氏が大統領就任当初にロシア国民と合意した『社会契約』は経年劣化が進んでいる。そもそも両者の関係は、プーチン氏が国民に対して共産党政権時代より高い生活水準や1990年代のエリツィン政権よりも安定した社会を保障するのと引き換えに、国民はプーチン氏の絶対的な権力やその取り巻き集団の影響力と財産には口を挟まないという不文律の上に成り立っていた。

 だが、この社会契約は新型コロナウイルスの感染拡大前からほころびが生じていた。その一因は世代交代にあるが、国家の安定を損なうことなく石油やガスなどの天然資源に依存する経済から脱却するのに欠かせない大胆な改革をプーチン政権下では実現できないことも問題だった。新型コロナ危機が追い打ちを掛ける形で景気後退が深刻になり、エネルギーの生産と輸出に頼って経済の立て直しを目指すという算段はますます怪しくなっている。

 その結果、1964年から82年まで18年間続いたブレジネフ政権の末期と重なるかのように、プーチン氏主導の政策は行き詰まり、政権維持のために中身のない政治的な儀式にばかり熱を上げているように映る。しかも、両者の類似点はそこにとどまらないようだ。憲法改正案が承認されたことで、プーチン氏は2036年まで大統領の座に居座れるようになった。退任の期限を迎える時には80歳代前半となり、ブレジネフ氏が在職中に死去した時の年齢を少しばかり上回ることになる。

 もちろん、プーチン氏が任期途中で自ら身を引く可能性はある。とはいえ、茶番劇のような国民投票を見た後ではプーチン氏の擁護派でさえ、ロシアの未来には希望があるし彼はうまくやるはずだと言い張るのは難しいだろう」。

 ―― 上記は、2020年7月8日付け日本経済新聞に転載された7月3日付フィナンシャル・タイムズ紙の記事をまるっと無断転載したもの(寛恕を請う)。