断章191

 イエス・キリスト使徒の一人で、「ペテロの否認(今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うであろう)」で有名なペテロは、漁師あがりの純朴で気弱な男だったが、殉教した。

 

 「ローマ帝国におけるキリスト教徒への迫害は日を追うごとに激しくなり、虐殺を恐れた者たちが国外へ脱出する事も当たり前になっていた。ペテロは最後までローマにとどまるつもりであったが、周囲の人々の強い要請により、渋々ながらローマを離れることに同意した。夜中に出発してアッピア街道を歩いていたペテロは、夜明けの光の中に、こちらに来るイエス・キリストの姿を見る。ペテロは驚き、ひざまずき、尋ねた。

 『Quo vadis, Domine? 』(主よ、どこに行かれるのですか?)

 キリストは『そなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って今一度十字架にかかるであろう』と言った。

 ペテロはしばらく気を失っていたが、起き上がると迷うことなく元来た道を引き返した。そしてローマで捕らえられ、十字架にかけられて殉教したのである。ペテロは死んだが、それはキリスト教の発展の契機となり、彼はカトリック教会において初代のローマ法王とされている」(Wikipediaより)。

 

 一方、「目から鼻へ抜ける(非常に利口で賢いさまのたとえ。また、物事の判断がすばやく抜け目のないさまのたとえ)」利口なレーニンは、マルクスを全知という触れ込みの始祖にし、どこへなりと、導かれるままに共産党についていくように大衆を洗脳する教義を確立した。

 初代のマルクス・レーニン主義(教)の教皇になり、ミイラにされて祀られたのである(後継のスターリンとの確執も限られたもので、毛 沢東と劉 少奇あるいは林 彪との間のような激闘・暗闘ではなかった)。

 

 共産主義とは、財産の私有を否定し、生産手段を共有することによって貧富の差のない社会を実現しようとする思想・運動であるとされるが、科学的装いをした〈教義〉である。

 共産主義マルクス主義)教では、やがて必ず「共産主義社会」が到来するという。そこでは階級は消滅し、生産力が高度に発達して、各人は能力に応じて働き、必要に応じて分配を受けるとされる。

 ところが、共産主義の、「最も大規模で有名な実験はソヴェト連邦で行なわれ、惨めな失敗に終わった。『誰もがその能力に応じて働き、必要に応じて受け取る』という理想は、『誰もがさぼれるだけさぼり、もらえるだけもらう』という現実を招いた」(ユヴァル・ノア・ハラリ)のである。

 

 共産主義マルクス主義)者は、まだまだ諦めていない。例えば、日本共産党は、原始共産制(原始共同体)についても、「エンゲルスは、『家族・私有財産・国家の起源』のなかで、ヨーロッパ人の侵入以前のアメリカ先住民(いわゆるインディアン)の社会の姿を、当時の民族学の研究に基づいて紹介しています。それによれば、一つひとつの部族が、『氏族』と呼ばれる血縁集団を単位として生活していました。そして氏族の構成員は互いに平等で、他人の支配を受けず、男女すべてが参加する選挙によって指導者(酋長)を選んでいました。

 このような氏族を単位とする平等な共同社会は、世界の多くの地域で最も古い段階に存在していた証拠が発見されています」などと言って、共産制=「平等な共同社会」のユートピアに未練タラタラなのである。