断章189

 「全体主義の立場から見ると、ソ連システムはムッソリーニヒトラーさらにはフランコのシステムと比べてもはるかに堅固で、全体主義としては遙かに完成されていると思われる。反対勢力だったときのレーニン主義はクーデターの技法であったが、権力の座についたレーニン主義は抑圧の技法になったのである」(E・トッド)。その後、ソ連は崩壊した。

 一方、中国は、はるかに堅固でさらに完成された全体主義に成長した。

 

 「中国は過去30年で中間層が(恐らく)人類史上最速の速さで豊かになった。30年前は、中国では庶民が自由に外国へ旅行に行ける時代が来るなど、想像できなかったはずだ。しかも、経済だけではない。『監視社会だ』、などと揶揄されても、今では政権批判さえしない限り、昔から比べればそれなりに自由だ」(滝澤 伯文)。かかる現実を踏み台に、中国共産党・習 近平は、空虚な毛沢東賛美を続け、恐ろしい歴史を隠してその政治手法を踏襲する。

 

 すると当然、次のようなことになる。

 「名前は明かせないが、中国のある中央省庁の若手幹部と、香港問題や米中関係をめぐって2時間近く議論する機会があった。『議論』と呼ぶのはふさわしくない。彼が一方的に中国共産党の『正しさ』を語り続けたからだ。

 『1921年の結党から99年、絶えず自己革新を続け“為人民服務(人民に奉仕する)”という目的のために戦ってきたのが中国共産党の歴史です』。彼は党が人びとの支持を勝ち取れた理由をえんえんと述べ、次のように締めくくった。『私は誇りをもって中国共産党が世界で唯一、人民を代表する政党だと言えます』。

 だれかに言わされているふうはまったくない。真剣なまなざしからは、心の底から党を信じる気持ちが伝わってくる。もちろん彼自身、生粋の党員である。

 習近平(シー・ジンピン)総書記(国家主席)を頂点とする中国共産党は、2019年末時点でおよそ9200万人の党員を抱える。ドイツの人口を軽く超す世界最大の政党だ。

 それでも、14億の人口に占める割合は6%ほどにすぎない。党員は中国社会のエリートだ。

 中国の政治を独占する彼ら彼女らは、どのように選ばれるのか。党の憲法にあたる党規約などに、細かな決まりが記されている。

 入党を希望する人はまず『紹介人』になってくれる党員を探さなければならない。2人の紹介人を見つけてはじめて入党申請が許され、審査が始まる。半年から1年で最初の関門が訪れる。有力な党員候補である『入党積極分子』の選抜だ。2人に1人がはじかれ、残った人は1年にわたって党規約などを学ぶ活動に参加する。そこですぐれた成績を収めた者だけが『予備党員』に選ばれる。正式な党員として認められるのは、さらにその1年後だ。

 2019年末時点で入党申請者は約1900万人いる。新たな党員は1年で234万人しか増えていないので、申請者のうち入党できたのはざっと8人に1人ほどだった計算になる。

 12年秋に党のトップに就いた習氏は『党員の質を高める』と繰り返してきた。審査の厳格化で新たな入党者は以前より減っている。党に少しでも疑問を抱くような人物が入り込む余地はもはやない。

 党員にとって、党への忠誠を誓う最も重要な儀式がある。予備党員に昇格する際に臨む入党式だ。党旗の前に立ち、右手の拳を肩の上にあげる。そして党規約にある『誓詞』を暗唱する。

 『私は中国共産党に志願して参加し……』に始まり『……永遠に党に背かない』で終わるそのせりふの途中には、どうしても引っかかる一節がある。『党の秘密を守る』だ」(2020/08/23 日本経済新聞)。

 中国共産党には、数多の秘密がある。そして、党員はもし秘密を知ることがあっても、「党の秘密を守る」必要がある。

 

 例えば、中国共産党の粛清の原点であるAB団粛清のことである。

 「まるで人目を避けるように建国の父、毛沢東の旧居があった。周囲には雑草が生い茂っている。中国南部、江西省富田村。毛沢東の遺跡であれば無条件に観光名所となるのに、一体どういうことなのか。その理由は、中国共産党の権力闘争と粛清の歴史に隠されていた。

 共産党1921年に上海で設立された後、1927年に江西省南昌などで武装蜂起をしたが失敗。指導者の一人だった毛沢東は部隊を率いて江西省湖南省にまたがる井岡山に入り、最初の根拠地とした。

 その後、毛沢東は地元出身の幹部との対立が表面化。1930年、毛は江西省党委員会が置かれていた富田村に部下を派遣し、反対派120人を逮捕、24人を処刑した。党内のAB団摘発がその理由とされた。AB団とは、蒋介石率いる中国国民党の反共組織のことだ(引用者注:そういう名目のでっちあげだった)。

 当時、共産党中央でもソ連留学組のソ連派と、地方の有力幹部らが対立。ソ連派が毛に加勢する形で、富田村でさらに4千人以上が逮捕・処刑されたともいわれている。

 その後も、AB団摘発を大義名分にした粛清が各地で継続。犠牲者数は諸説あるが、7万人以上ともいわれている。

 共産党の長い権力闘争史の中で、最初の大規模粛清が行われた地が富田村だった。ソ連スターリンが大粛清に乗り出した1934年よりも早かった。

 問題なのは、毛による富田村での摘発を含め、AB団事件のほとんどが冤罪(えんざい)だったということだ。中央党史研究室が編纂(へんさん)した『中国共産党歴史』にも、AB団との闘争は『ひどい臆測と拷問で得られた自供により、多くの冤罪、でっち上げが生み出された。その教訓は非常に深刻なものである』と記述されている(引用者注:この評価もやがて書き替えられるに違いない)。

 『今、この村を訪れる観光客は多くない』と語るのは富田村トップの王善梅党委員会書記だ。粛清について質問しても、毛沢東の犯した誤りに触れたくないのか、『詳しくは知らない』と繰り返すばかりだった」(2017/10/26 産経新聞・藤本欣也)。