断章166
生存のための、より良い暮らしのための不断の努力は、ホモ・サピエンスの力能を次第に発達させた。例えば、「サピエンスの狩猟採集民の放浪集団は、前より寒い地方に移り住んだ時、雪の上を歩くための履物や、幾重にも重ね、針を使ってきつく縫い合わせた毛皮や皮革からなる、保温効果の高い衣服の作り方を身につけた。マンモスなど、極北の大きな獲物を追跡して殺すことを可能にする新しい武器と高度な狩猟技術も開発した。保温性のある服と狩猟技術が進歩するにつれ、サピエンスは酷寒地方の奥へ奥へと、危険を冒して進んでいった。そして、北への移動の間も、衣服や狩猟戦略、生き延びるためのその他の技能は進歩し続けた」(『サピエンス全史』)のである。
しかし、いずれにしても、ある地域における野生動物の生息数や野生植物の植生は、限られており、野生動物はすぐに狩りつくされ、野生植物も食い尽されたであろう。だから、ホモ・サピエンスは、食料を求めて絶えず新たな土地に移動しなくてはならなかった。そうして、ホモ・サピエンスは、世界の果てまで拡がったのである。
およそ1万2千年前、いくつかの地域で農耕牧畜が始まった。ホモ・サピエンスには、そのころには、すでに農耕牧畜ができる諸力能の蓄積があった。
「農耕という行為を永続的に続けるために必要なことは、農耕に適した作物を見つけることであり、畑にする肥沃な土地があり、そして作物の栽培に欠かせない水が得やすいことであり、農具と家畜を利用することであった。6千年か7千年前には、すでに家畜に犂を引かせて畑を耕すことが行われている。野生の牛や羊を飼い慣らして家畜として飼育すれば、その肉やミルクを食用にして、その排泄物を畑の肥料にできる。1万2千年前には、山羊が家畜化され、6千年前には馬が家畜になったらしい。農耕をするのに適していない西南アジアの草原では、人間の食べ物にはならない野草を動物に食べさせて、その肉やミルクを食料にする遊牧が始まった。それまで狩猟採集で暮らしてきた人類は農耕と牧畜で食料を生産するように転換したのである。狩猟採集で食料を獲得するのに必要であった広い土地は不要になり、農耕をすればその20~30分の1の土地で食料が安定的に得られた。こうして食物を安定して手に入れることができるようになった人類は、それまでよりもはるかに余裕のある生活を営むことができるようになり、人口が増え始めるのである」(橋本 直樹)。
「人類が農耕牧畜を開始するまでの世界人口は、何万年もの間、たかだか数百万人であったと考えられています。(中略)
日本を含む世界の各地に農耕牧畜が普及した西暦1年ころ、いまから2千年ほど前の世界人口は1億7千万人ほどであったと推計されています(なお、2016年の世界人口は約75億人、2050年には92~97億人になると見込まれています)」(小野塚 知二)。
「初期の農耕民は、祖先の狩猟採集民以上とは言わないまでも、彼らに劣らず暴力的だった。農耕民のほうが所有物が多く、栽培のための土地も必要とした。放牧に適した草地を近隣の人々に襲われて奪い取られれば、生存が脅かされ、飢え死にしかねなかったので、妥協の余地はずっと少なかった。狩猟採集民の生活集団が、自らより強力な集団に圧倒されたら、たいていよそへ移動できた。それは困難で危険ではあったが、実行可能だった。ところが、農村が強力な敵に脅かされた場合には、避難すれば畑も家も穀倉も明け渡すことになった。そのため、多くの場合、避難民は飢え死にした。したがって、農耕民はその場に踏みとどまり、あくまで戦いがちだった。
村落や部族以上の政治的枠組みを持たない単純な農耕社会では、暴力は全死因の15%、男性の死因の25%を占めていたとする、人類学や考古学の研究が多数ある」(『サピエンス全史』)。
その後、「至る所で支配者やエリート層が台頭し、農耕民の余剰食糧によって暮らし、農耕民は生きていくのが精一杯の状態に置かれた。
こうして没収された食糧の余剰が、政治や戦争、芸術、哲学の原動力となった。余剰食糧のおかげで宮殿や砦、記念碑や神殿が建った。近代後期まで、人類の9割以上は農耕民で、毎朝起きると額に汗して畑を耕していた。彼らの生み出した余剰分を、王や政府の役人、兵士、聖職者、芸術家、思索家といった少数のエリート層が食べて生きており、歴史書を埋めるのは彼らだった。歴史とは、ごくわずかの人の営みであり、残りの人々はすべて、畑を耕し、水桶を運んでいた」(『サピエンス全史』)。