断章143

 時代が大きな曲がり角を迎えた時、必ず、甲論乙駁する諸子百家が登場し、切磋琢磨を通じて時代を画する「思想」や「宗教」が頭角を現わし、さらにそれを宣伝・布教するエバンジェリスト(伝道者)が登場するものである。

 もし、新型コロナによって時代が大きな曲がり角を迎えるなら、また必ず、新たな装いの「思想」や「宗教」が姿を現わし、さらにそれを宣伝・布教するエバンジェリスト(伝道者)が登場するだろう。

 

 今わたしたちに必要なことは、自称「知識人」リベラルが振りまいている瑣末な批判や単なる懐疑の思考ではなく、「信じるにたるとするものを見極め、自分の進むべき方向を決断し、現実問題を解決するための生産的な思考」である。

 現実的で生産的な思考は、「凡庸(ぼんよう)な現実主義者の思考」のように見えるので、観念的なインテリには概ね不評である。例えば、イタリア・ルネサンス期のマキャベリである(あるいは日本では、江戸時代の「石門心学」などである)。

 本当は、インテリのお好きな観念的空論よりも、こちらの方が真っ当で、わたしたちに必要なものである。

 

 石門心学に触れたついでに、『石田 梅岩』(森田 健司・著)へのアマゾンレビュワー評を張りつけておこう。

 「石田梅岩(1685-1744)は江戸時代中期の思想家だ。時代は、8代将軍徳川吉宗(1684-1751)の時代。驚くべきことに、梅岩は農家の次男だった。幕末の思想家、吉田松陰は武士(長州藩士)である。武士であるがゆえに、学問もでき、塾を開くこともできたのだろう。

 ところがその100年以上前、京都で塾を開き、多くの塾生を受け入れた梅岩は農民出身だったのだ。この時代、どういう経緯で、農家の次男が塾を開くまでになったのか、その人生をたどるだけでも興味深い。

 人間とはどう生きるべきか・・・。今の時代にも十分通用する考え方が凝縮されている。

 最終ページの著者紹介で、森田健司氏は1974年生まれと知った。梅岩の研究者ということで、もっと年配の方かと思っていたのでおどろきがあった。文章のまとめかたや伝え方がとても現代的で型にとらわれていないところが若手らしくて良い」。

 

 「民間研究者上がりの石田梅岩を無学で文字に疎いと批判した者に対し、石田梅岩は、『文字がなかった昔に、忠孝はなく、聖人はいなかったとでもいうのか。聖人の学問は行いを本とし、文字は枝葉なることを知るべし』といい、自ら徳に至る道を実行せず、ただ文字の瑣末にのみ拘泥しているのは『文字芸者という者なり』と痛烈に反論した」(Wiki)。

 

 巷間、言葉の瑣末にのみ拘泥(こうでい)する“言葉芸者”インテリが多すぎる。