断章142

 ここ最近、『週刊文春』や『東洋経済』で、思想家・内田樹が“珍説”を述べている。思想家・内田の“珍説”は、「思想家の痴呆化、思想の死相」と呼べるレベルのものである。神戸女学院(内田の元職場)の女子大生に頼まれて採点をかなり甘くしても、「おのれの著作を売るためなら、コロナ禍をも利用する高等駄弁」にすぎないのである。

 内田への「批判」は、わたしの「内心の衝動」などというものの所産では決してない。正直、わたしは、宅配のバイトで忙しくて疲れている。

 ただ、内田をまねて言えば、学者たちもサル化していて、大学教員という地位を守るためだけではなく、知名度や印税を得るために汲々として、お互いの著作を仲間ぼめするだけで、厳しい批判や議論を避けている。なので、この“珍説”を放置すれば、内田自身のサル化が進むことを気の毒に思って、この酸っぱいリンゴをかじる決心をしたのである。まず、週刊文春 2020年4月9日号(ネット版)から俎上にのせる。なお、所々で長い引用をする。

 

 内田は、「『サル化する世界』という本を書きました。こういうタイトルにしたのは、この四半世紀ほどで日本人の考え方がはっきり変わったように思えたからです」と、書名(タイトル)をいたくお気に入りの様子である。だが、全く、いけてない。

 「無策な安倍政権をいまだに支持し続ける人がいる理由 ―― 内田樹の緊急提言」と大上段に振りかぶったのだから、高橋洋一の『バカを一撃で倒す日本の大正解』くらいのド真ん中ストレートで押すか、藤森かよこの『馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください』みたいな際どいコースに思い切って投げるべきだった。

 『サル化する世界』だなんて、栗本慎一郎の『パンツをはいたサル』を思い出しちゃったのである。今風に、『パンツをはいたサル 2.0』にしてもよかった。もう少し出版が遅くて、 “ワンワン高井”(立憲民主党を除籍された)の後なら、『イヌ化した日本』もありだった。閑話休題

 

 「こういうタイトルにしたのは、この四半世紀ほどで日本人の考え方がはっきり変わったように思えたからです」と、内田は新発見をしたように語る。何という事はない。普通に読めば、「四半世紀以前の日本人は、今ほどサル化していなかった」(昔はよかった)という、老人のありふれた懐旧談の一種にすぎないのである。いっそのこと、「戦後の日本人はダメになった」と言えばよいのに(笑い)。保守と同じことをあからさまに言えないので困った内田は、苦しまぎれに、「この四半世紀ほどで日本人の考え方がはっきり変わった」ことにしたのである。

 

 「僕が生まれた1950年の日本の労働人口の50%は農業従事者でした。人々はそれと気づかずに『農業的な時間』『農事暦』を呼吸して生きていた。朝日とともに起きて、陽が落ちたら眠る。春に種を蒔き、日照りや冷夏や風水害や病虫害を恐れ、無事に秋を迎えたら収穫をことほぐ……。そういう『農業的な時間』の中で生きていました。それが日本人の時間意識の土台をかたちづくっていた。しかし、それから70年経って、産業構造が高次化してゆくにつれて、日本人の時間意識もその時代に支配的な産業構造に適応して変化していった」と内田は言う。

 

 自説に都合よく歴史を修正し、論理も飛躍している。

 第1に、内田は、中世にも、近世にも通底する農業社会一般の“時間意識”について述べているにすぎない。明治から大正そして昭和にかけて、日本人の“時間意識”がどれほど大きく変容したかを語っていない。江戸時代の日本人の“時間意識”は、内田の言うとおりだ。日本人が時間にルーズなことを嘆いた外国人の記録も多い。

 しかし、文明開化以後の、鉄道の開通、工場の建設、学校の整備、なによりも徴兵制や昭和期のラジオ放送によって、日本人の“時間意識”は否応なく大きな変化を遂げたのである。内田の言うような“農業的な時間”のままに生きていては、汽車は運行停止し、工場は稼働せず、分刻みの兵営生活は成り立たず、いわんや「02:10に出撃する」(マル・フタ・ヒト・マルに出撃する)と下令(かれい)されても、寝入っている水兵さんたちは出撃できないだろう。

 第2に、1950年代の日本の農村・農民の“リアル”について、無知をさらけ出している。敗戦後の農地改革から戦後復興に続く1950年代の日本農村・農民は、江戸時代の「勤勉革命」(速水 融による命名)に負けず劣らず寸暇を惜しんで働いていた。1950年代の農家の“リアル”は、現金収入を得るために、「陽が落ちた」後も、納屋(なや)の裸電球の下で夜遅くまで縄ない機を踏んでいたり、夜っぴいてブタの出産の世話をしたり、コメ増産のためのパラチオン散布の“中毒”に苦しんでいたのである。

 現実を知らないので、定年退職後に就農して晴耕雨読することを夢見る人のような、牧歌的な「農業的な時間」をイメージするのである。1950年代の日本人が、「それと気づかづに『農業的な時間』『農事歴』を呼吸して生きていた」という主張は、内田のご都合主義的主観にすぎないのである。

 

 ここで、何でもかんでも売文のネタにする内田樹について、簡単なおさらいをしておくことにしよう ―― あわてない、あわてない。一休み、一休み。なにしろ、わたしは、「春には花見をし、夏には海水浴に行き、秋は紅葉狩りをして、冬には雪を愛でる」という「農業的な時間」を今も生きておりますので(もちろん、宅配バイトの配達指定時間はきっちり守りますよ)。

 

 4月21日現在のウィキペディアによれば、内田 樹(うちだ たつる)は、「日本のフランス文学者、武道家、翻訳家、神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学人文学部客員教授。学位は修士。専門はフランス現代思想立憲民主党パートナー。

 東京都大田区下丸子に生まれ育つ。父方の祖母の遠縁の親戚に、参謀本部作戦課長、陸軍大臣秘書官として東條英機の側近だった服部卓四郎がいる。1966年、東京都立日比谷高校に入学。高校2年で成績が学年最下位になり、のち品行不良を理由に退学処分を受けた。家出してジャズ喫茶でアルバイトをするが、生活できなくなり、数ヶ月後に親に謝罪し家に戻った。1968年10月、大学入学資格検定に合格。東京大学文学部卒業。東京都立大学 大学院人文科学研究科修士課程修了。1977年、平川克美と共に翻訳会社『アーバン・トランスレーション』を設立。1980年頃、哲学者エマニュエル・レヴィナスを知る。たまたま手にとった『困難な自由』の最初のテクスト『倫理と精神』を読んで衝撃を受け、『この人についてゆこう』と決心した」とある。

 “立憲民主党パートナー”は、もう辞めているかも・・・。元々は高等遊民なんだろうが、高等遊民の連想類語には、「粋な人・エスプリを知る人」とあるから、考え方がサル化した編集者たちには飲み友達として人気があるのかな?

 

 およそ半世紀前に、三浦つとむは、日本共産党の御用哲学者たちについて、「彼らは、ソ連の『哲学教科書』のスコラ的解釈を大衆向けにやさしく書き換えるだけで、自分で実際に問題を解いたことがないから、彼らが書いたものは、学問的にも実践的にも全く役に立たない」という主旨のことを述べた。内田樹も似たようなものである。『しんぶん赤旗』やリベラル系紙誌の「埋め草」として役に立つだけである。

 

 さて、上記の続きを引用する。内田は言う。

 「今はグローバルスケールで展開する金融資本主義の『取引の時間』に人間の方が適応馴化させられている。今、金融商品の取引は1000分の1秒単位でアルゴリズムが行っています。だから、経営者たちは当期より先のことは考えなくなりました。考えても仕方がないからです。収益が悪化して株価が下がれば先がない。10年後、20年後の会社の『あるべき姿』より当期の数字が優先する。わが社の設立意図は何であったかというようなことは誰も覚えてさえいない。今の企業には過去も未来もないということです。

このせわしない時間になじんだ人からは、長いタイムスパンの中でおのれの行動の適否を思量するという習慣そのものが失われた。別に頭が悪くなったとか、人間性が劣化したという話ではありません。時間意識が環境に適応して変わっただけです」と。

 

 わたしは、「『思想家』という看板を掲げるなら、最初にまず、『金融資本』・『金融資本主義』を『定義』してみなさい」と、内田に要求するつもりだった。ウィキペディアにある“経歴”を見るかぎりでは、無いものねだりのようである。

 

 内田の説明は、典型的な「一知半解」(なまかじりで、知識が十分に自分のものになっていないこと。半可通)であり、そこからの立論は、無理矢理あれやこれやを結びつけた“珍説”である。

 というのは、第1に、金融資本といっても、政府系金融機関・銀行・保険・証券・ファンドなどなどである。金融商品にも色々ある。銀行、証券会社、保険会社など金融機関が提供・仲介する各種の預金、投資信託、株式、社債、公債、保険などなど。そもそもウィキペディアには、「金融商品とは、一般に、金融取引における商品を漠然と指す」(漠然と! 笑い)とある。金融取引も色々である。

 例えば、金持ちが大金を銀行に持って行った折に、窓口で投資信託をすすめられて購入したとする。内田に問う。この金融商品の取引のいったいどこに「1000分の1秒単位のアルゴリズム」があるのか?

 第2は、内田が聞きかじって使っている、「1000分の1秒単位のアルゴリズムを使った取引」についてである。

 まず、基礎知識。

 アルゴリズム取引とは、注文のタイミング、価格や数量、発注後の管理などについて、人手の介入をなくし、あるいは最小化し、コンピューターのアルゴリズムが自動的に決定する取引方法である(自動注文システムのこと)。

 「ミリセコンドの取引」とは、ハイ・フリークエンシー・トレーディング(HFT)のことで、コンピューターを駆使した超高速の金融取引を指す。このHFT取引は、2010年、東京証券取引所の新アローヘッドの稼動以後に可能になったことであり、内田の「この四半世紀ほどで云々」と結びつけることは無理である。

 そして、ここからが本題だ。

 この2つを統合合体した「1000分の1秒単位のアルゴリズムを使った取引」システムを使えるのは、ヘッジファンドや一部の機関投資家だけである(直接の担当者はごく少数)。なぜなら、秀逸な取引戦略、厖大な統計データ、大量・長時間のバックテスト、なによりも巨額の資金が無ければ運用できないからである。

 ところが他方、アルゴリズム取引だけなら、いまや一般人も利用可能である。というのは、ネット証券がお客に無料で提供している個人用売買ツールに実装されているからである。そして、この個人用(アルゴリズム)取引ツールは、内田が言うように「人間の方が適応馴化させられる」というよりも、逆に人間の自由度をより増すものなのである(売買注文の自動発注だから)。

 喩(たと)えるなら、内田のおしゃべりは、初めてF1レースを見た未開人が、「自動車という乗り物は、全て、同じところを猛烈な速さでグルグル回るんだ」と村人に話しているようなものである。

 

 次に内田は、「金融商品の取引は1000分の1秒単位でアルゴリズムが行っています。だから、経営者たちは当期より先のことは考えなくなりました。考えても仕方がないからです」と続ける。経営(学)者たちは、腹を抱えて大笑いするだろう。

 ここにも論理の飛躍がある(あるいは無論理、おもいつき)。そのカギは、《だから》である。本来、《だから》は、前に述べた事柄を受けて、それを理由として順当に起こる内容を導く語である。ところが、ここでは、論理を飛躍させるカギに化けているのである。

 

 経営者たちが、より期近を意識しだしたのは、高度な大衆消費社会の流行や嗜好の変化を予測し難くなったからである。であるからこそ、「先のことを考える」企業の経営企画室が社内の花形になり、経営コンサルが活躍するのである。

 「アップル社は、日本企業によくある3カ年計画について、『それは、ドリームと呼びます』といった。つまり、そんな先のことを考えても意味が無いと思っている」(原田 勉)という指摘なども、あくまでもこれから先の経営戦略・競争戦略を考察する文脈中のことであって、「考えても仕方がないから」(内田)という思考放棄ではないのである。

 

 「収益が悪化して株価が下がれば先がない」。挙げ句、「今の企業には過去も未来もない」と、内田は宣告する。「アメリカの経営者は、業績が悪化すればすぐ首にされる」と小耳にはさんだからである。

 ところが、アメリカでも一概にこう言えないし、いわんや日本の経営者たちは、「株価が下がってもどこ吹く風」だったことは、周知のことである。ファンド等の圧力もあって、ようやく最近、日本人経営者の考え方も若干前向きに変化して、“勘と度胸”ではない戦略的経営やROEを意識した経営へと舵を切っているのである(注:わたしは、なにも「会社は永遠だ」と言っているのではない。念のため)。

 

 「このせわしない時間になじんだ人からは、長いタイムスパンの中でおのれの行動の適否を思量するという習慣そのものが失われた」と内田は言う。

 どうってことはない。しち難(むずか)しく、「最近の日本人は目先のことしか考えていない」と言っているだけだ。「長い人生を考えると保険も必要ですよ」と諭してくれる保険屋さんの同類である。

 あるいは、「現代をよりよく生きるためには『よい思考』が必要。大切なのは、よく考えようとする『態度』である」と言いたいのか? クリティカルシンキングの“入門書”にも書いてある内容だぞ。

 いずれにしても、「この四半世紀ほどで日本人の考え方がはっきり変わった」という内田の“珍説”の論拠は、薄弱であり、牽強付会(注:自分の都合のいいように、強引に理屈をこじつけること)である。

 

 宅配バイトに行く時間が来たようである。中間総括として、わたしは問う。

 内田 樹とは、いったい何者なのか? 

 内田の別の本を出版した「かもがわ出版」の推薦文に、「マルクシアンを自称する内田樹氏。なぜそれほどまでにマルクスを愛読してきたのか、なぜ若者に勧めるのか。本書ではじめて明らかにされる驚きのその理由」とある。

 マルクシアンだって? では、マルクシアンとは、いったい何か?

 あるブロガーさんによれば、「『マルクシアン』とは、『マルクスの知見を理解し、その志に敬意を抱くが、その術語や概念を分析のための主要な道具としては用いない人』のこと。

 『マルクシスト』とは、『マルクスの理論を自らの思想的立場として、その概念・術語を分析の基本的な道具とする人』を指します。いわゆる『マルキストマルクス主義者)』のことだと考えていいでしょう」とある。

 つまり、売文のためにマルクスから様々な引用だけをする口舌の輩(やから)のことである。概ね、共産党の“同伴者”でもある。

 

 ある人は、ナシーム・ニコラス・タレブの著作の書評において、「警官や兵士などが尊敬を集めるのは信念のために自らの命を捧げている(身銭を切っている)からであり、政治家や経済学者が嫌われるのは、高みの見物ばかりで自分ではなんのリスクも冒していない(身銭を切っていない)からとでも言えようか。残念ながら現実は、リスクをとらずにリターンだけをとる、自称“知識人"が跋扈している」と書いている。内田樹もそのひとりである。