断章113

 ネズミ男は、今夜もコタツでまったりしている。

 「まったり」といっても、例えば、自称「知識人」リベラルの法政大学教授・山口二郎氏のように、立憲民主党の新年交歓会から帰宅するや暖炉の前でブランデーを飲みながらマーラー交響曲を聴くような「まったり」ではない(妄想・・・でもない)。

 黒猫の宅配バイトから帰って来て、コタツでココアを飲みながらフレンチロックを聴くのが関の山なのである。「俺の 戦いは 夜明けまで終わらない 自由に目覚め 歩みだせ! スリルに満ちる 人生へ!♪」

 すると、早くに死んだ友、イノシシ男を思い出すのである。ネズミ男とイノシシ男は、似ていなかった。『仁義なき戦い』の金子信雄菅原文太ほども違っていたが、友人だった。イノシシ男は、正義漢でパッションがあった(パッションには、2つの意味がある。1つ目は「情熱」という意味。2つ目は「キリストの受難」)。

 昭和の時代には、低学歴で、アタマがよくなくても、正義漢でパッションがあれば、“啓示”を授けられたものである。「君こそスターだ」ではない。「君は、なぜ、この疎外された否定的現実と闘わないのか?」という“啓示”である(別の用語では、オルグされたという)。

 なにしろイノシシ男であるから、猪突猛進、あっという間に、「パルタイこそが、わたしが、そこに生き、そこに死す場所」となり、「献身性、その忍耐、自己犠牲、英雄主義は限りない」活動家になったのである。ネズミ男も、色々と話を聞かされ、誘われ、手伝いをしたこともある。

 小出版社の争議・会社占拠の応援泊まり込み、深夜に電柱にステッカーを貼りに行き、釜ヶ崎の越冬支援に行く。不眠不休の活動、ギリギリの生活。それでも、個人の奮闘とは無縁に、時代は回る。パルタイは(指導部は)、彼のような下部活動家を利用主義的に使い捨てにする路線を進んでいった。

 ある日突然、イノシシ男は姿を消し、後に、雪国で死んだと聞いた。当時、街には、中島みゆき「ファイト」が流れていた。

 ――― パッションには、2つの意味がある。1つ目は「情熱」という意味。2つ目は「キリストの受難」。