断章112

 ネズミ男は、遅い夕飯を食べていた。今日も薄味の鍋である。ローテーションで、「鍋キューブ・とんこつ味噌」の日である。ネズミ男は、「『鶏だしうま塩』なら我慢できるとしても、『とんこつ味噌』にはキューブをもう1個追加してほしいなぁ」と秘かに思うのである。

 薄味の鍋を食べながら、「そうそう、鍋と言えば、昔、大蔵官僚が接待で“ノーパンしゃぶしゃぶ”に行ったなんて事件があったなあ~。やっぱり、酒と女と金か~」と、薄ぼんやりと思い出していたら、ハムスター女が話しかけてきた。「ねえねえ」。

 ハムスターが、ヤギのように話しかけてきたら、要注意である。おおむね、金にまつわる相談である。そういう時は、木で鼻を括ったように、「何でしょうか」と素っ気なく答えなければならない。

 「今日は、この後、ポカポカ温泉に行きたいんだけど。ほら~、地下1500メートルからのお湯だから、やっぱり身体の芯まで温まるし、あと少しでスタンプも満杯になるし」と言うのである。「今月は1回行ったから、今日はパスしたら」と答えたら、ハムスター女が叫んだ。「ちっちぇー、おめえの器は、おちょこだな」(彼女は、最近、漫談のねづっちの「嫁ネタ」がお気に入りで、そのパクリである)。普段は、「ハイハイ、器と肝とアレは小さいですから」と、あしらうのである。

 ただ、明後日にはまた義母の病院付き添いもあることだし、サービスしておこうかと、ネズミ男はオッケーしたのである。ひとり静かに読書ができると思ったからでもある。

 そして、三浦つとむ『唯物弁証法の成立と歪曲』に取り掛かった。なぜなら、ネズミ男のように非力な者がヘーゲルのような山によじ登るためには、それを助けるハシゴが必要だと思ったからである。

 

 共産党系「哲学者」の名前が、たくさん出てくる。ミーチン、デボーリン、山田坂仁、甘粕石介、松村一人、原光男。共産党員の「独習文献」に指定された書籍を書いた者もいたに違いない。だが、読むに堪えるものは、何ひとつ残っていない。「まぼろし~」と笑うしかない惨状である。

 

 それはさておき、最初の一篇を読んで、ネズミ男は思ったのである。「日の下に新しきことなし」。「かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない」(コヘレト)のだと(この感想が、非弁証法的だとしても)。

 こんな文章がある。「わたしたちは、ずいぶん威勢のいい観念論批判をいくつも知っている。反動的だ、階級的敵対だ、ファシズムの宣伝だ、神学だと、西田哲学、田辺哲学が攻撃されている。自ら弁証法唯物論者と名のる人々の、こういう論文は、はたして真に『弁証法唯物論』の名に値するヨリ聡明な理論であろうか。・・・これらの多くの論文も観念論者を何ら反省させることができず、読者大衆を充分納得させることすらできないという事実は、観念論者がどれもこれも頑迷で、大衆の意識が低いためであろうか。いまの唯物論哲学者は、幾人かの例外を除いて、ただ『否認』をもって事足れりとする俗流唯物論者であり、これによって観念論が消滅するものと思いこんでいるのである」。

 

 まさしく今、自ら「知識人」リベラルと名のる人々も、レイシストだ、ファシストだ、歴史修正主義者だとネトウヨを攻撃するが、何ら反省させることができないし、大衆を「反知性主義」だと軽蔑して「否認」するだけの、俗流リベラルなのだろう。