断章83

 『検定版 高等学校韓国史』のⅤ章6項は、「経済侵奪に立ち向かう」である。

まず問題にされるのは、「貨幣整理事業」である。

 「日帝は日本人財政顧問の目賀田種太郎を先頭に、大韓帝国の金融市場を掌握しようと貨幣整理事業を断行した。当時わが国の商人が最も多く使っていた白銅貨を三等級に分けて交換した。甲種は額面価で交換したが、乙種は半分の価格で交換、最も金額が多かった丙種は交換に応じなかった。これによって商人は深刻な貨幣不足に苦しめられ、結局日本金融市場に完全に隷属してしまった」(P182)という。

 

 事実として、「当時の白銅貨には、典圜局製造の『官鋳』、正式な特別許可による外製の『特鋳』、韓国皇室の内々の勅許による外製の『黙鋳』、密造による『私鋳』があると見られていた。韓国皇室が納付金を徴して白銅貨の私鋳を黙許したため、大韓帝国において通用する白銅貨の偽物が日に増して流通し、その悪貨によって商取引に問題が発生していた。また、大韓帝国においては偽造勅命許可証(偽造啓字公蹟) が多く出回っており、それによる偽啓默鋳も行われていた。しかし、内密の勅許を暴露することは重罪であったため、民間人が白銅貨鑄造の勅命許可証の真偽を判断することは難しかった。(中略)

 また、当時、白銅貨や韓銭だけでなく、清の商人の発行する銭票や日本の商人の発行する韓銭預かり手形も韓国の市場に流通していた。(中略)

 1904年10月、目賀田種太郎が財政顧問となり、同年11月、貨幣の原盤の流出元とみられる典圜局は廃止された」(Wiki)。

 

 例えば、ギリシアのような通貨危機(混乱)であれば、緊縮財政を約束させて、EUが支援した。アジア金融危機では、「財政再建」「金融機関のリストラと構造改革」「通商障壁の自由化」「外国資本投資の自由化」「企業ガバナンスの透明化」「労働市場改革」などを約束させて、IMFが救済した。

 昨今の企業活動での“エンゼル”“白馬の騎士”といわれるものも100%善意ではないし、いわんや国際政治において100%の善意はありえない。今も各国が国益を追求する結果としての援助であり支援である。

 帝国主義全盛の当時において(IMFもEUもない時代)、大韓帝国(腐敗したアジア的専制下にある後進貧乏国)の混乱しきった金融・財政を立て直すための「貨幣整理事業」は、朝鮮にとって、また朝鮮半島での勢力拡大を企図する日本にとっても必要なことだったのである(「日本の下心」を云々することは、帝国主義全盛期の過酷な世界を正視できないことを意味するに過ぎない)。

 大韓帝国が、ひと昔前のコメディアンのギャグのように、「今やろうと思っていたのにぃ~」と言っても、自力で「貨幣整理事業」(金融混乱収束)ができなかったことは明白である(税関業務ですらイギリス人能吏のイニシアチブ頼りだった)。

 

 次に、韓国教科書は、「経済的救国運動」として国債報償運動を取り上げている。

 「日本から入ってきた借款は統監府の設置後、急激に増加した。莫大な借款導入により主権が脅かされると考えた民族指導者たちは国債報償期成会をつくり、国債を返すための運動を展開した。この運動は大邱で始まり全国に広がった。(中略)

 慌てた日帝国債報償運動を排日運動と見なし、募金運動を主管した梁起鐸を横領容疑で拘束して大韓毎日申報を弾圧した。結局国債報償運動は失敗に終わったが、日帝の国権侵奪が進められた時期に国民を団結させて愛国心を大きく呼び起こした」(P183)そうである。

 

 これも実際は、「日清戦争以後、大韓帝国政府は日本から巨額の借款を受け入れて、近代化を推し進めようとした。1907年に金光済は、経済的隷属に繋がると危機感を抱き、大韓帝国政府が借りた総額1,300万円を募金で返還する運動を始めた。金光済らは、『タバコを購入する代わりに国債を報償しよう』と喫煙廃止を主唱した。大韓帝国国民2,000万人が1ヶ月あたり20銭を消費するタバコの喫煙を止めれば、3ヶ月で優に1300万円を返済することが出来るというのである。この運動は大きな反響を呼び、ソウル新聞や帝国新聞などの賛同によって全国的に波及。タバコを止める人が大勢出現した。同時に募金活動も行われ、一時は16万4200円が集まった。

 ところが、この運動に賛同しながら影でこっそりとタバコを吸ったり、募金を着服する不祥事が発覚した。また、運動の中心人物であった英字新聞『コリアタイムズ』経営のイギリス人・ベセルが資金を横領した。日本が梁起鐸を拘束し妨害したという俗説もあるが、そもそも銀行に預けている募金が減っていることを日本に調査依頼したのは朝鮮側であり、また銀行の口座を管理していた梁起鐸の裁判において『ベセルが横領した』ことが明白になったため、日本の妨害という主張はあたらない。(中略)この運動はいつしか立ち消えとなった」(WIKI)のである。

 

 「日清戦争後の三国干渉後、ロシアは露清密約を結び遼東半島の南端に位置する旅順・大連を租借し、旅順に太平洋艦隊の基地を置いた。さらに、1900年の中国・義和団の乱に乗じて満州へ侵出して占領した。ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束した。ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず駐留軍の増強を図った。

 1902年、イギリスは、ロシアの南下が自国の権益と衝突すると危機感を募らせ、長年の孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との軍事同盟に踏み切った。同年、シベリア鉄道が完成し、ロシアも南進の準備が整った。

  幾度かの直接交渉も決裂して、1904年、日本軍が旅順港内のロシア艦隊を攻撃し、日露戦争に突入する。日本は転売を通じてだが日露戦争までに朝鮮で三つの鉄道利権を得ていた。京仁鉄道(漢城-仁川間、1900年開通)、京釜鉄道(漢城-釜山間、1904年開通)、京義鉄道(漢城-遼東へ通じる義州間、1905年開通)である。この三つの鉄道も使って、日本はロシアと戦い、戦争は翌年、日本の勝利で終わる。

 日本は、1904年、1905年、1907年の三次にわたる日韓協約を通じて、1910年の韓国併合に進んでいく」(Wiki等を要約)。

 

【参考】

 「日本がロシアに勝てたのは、まったく『海洋パワー』を持たなかったロシア帝国に対して、まさに圧倒的な『海洋パワー』を持った大英帝国の支援があったからであり、実際、旗艦であった戦艦三笠をはじめ、日本海軍の艦船のほとんどが英国製であった。また、重要な航路や港をイギリスが支配下に置いていたために、バルチック艦隊対馬沖に航行してくるまでにすでに疲弊しきっていたのである。

 日本は『小国』であったがゆえに『他の大国』であった英国の助けを得ることができただけでなく、その英国自身が圧倒的な『海洋パワー』を保持していたために、海戦を有利に戦うことができたのである。これは、それからほぼ40年後に孤立無援で『海洋パワー』がゼロの状態で、『大国』と戦っていた大日本帝国の状況と対比させて考えてみると感慨深いものがある」(注:ルトワックのいう「シーパワー」と「海洋パワー」の概念を説明した奥山 真司の解説文から引用)。