断章79
イザベラ・バード(長いつきあいになり、もはやディア・フレンド? 笑)は語る。
(朝鮮の)「上流階級は愚かきわまりない社会的義務にしばられ、無為に人生を送っている。中流階級には出世の道が開かれていない。エネルギーをふり向けられる特殊技能職がまったくないのである。下層階級はオオカミから戸口を守るのに必要なだけの労働しかせず、それには十二分な理由がある。首都ソウルにおいてすら、最大の商業施設も商店というレベルには達していない。朝鮮ではなにもかもが低く貧しくお粗末なレベルなのである。階級による特権、貴族と官僚による搾取、司法の完全なる不在、労働と少しも比例しない収入の不安定さ、いまだ改革を知らない東洋諸国の政府が拠りどころとする最悪の因習を繰り返してきた政府、策略をめぐらすどろぼう官僚、王宮と小さな後宮に蟄居したせいで衰弱した君主、最も腐敗した帝国との緊密な同盟関係、関係諸外国間の嫉妬、国じゅうにはびこり人々を恐れさせる迷信、こういったものがこぞって力を存分に発揮し、朝鮮をわたしが第一印象としていだいたような、資源などなにもなくうんざりするほど汚らわしい状態にまで落ちぶれさせたのである」(『朝鮮紀行』)。
「これまでわたしは最終的に食いものにされるのは農民層だといやになるほど繰り返してきた。(中略)・・・働いた分だけの収入を確実に得られるあてがまったくないため、農民たちは家族に着せて食べさせられるだけの作物をつくって満足し、いい家を建てたり身なりをよくしたりすることには恐怖をいだいている。無数の農家が地方行政官や両班から税を強制取り立てされたり借金を押しつけられたりして年々耕作面積が減り、いまや一日三度の食事をまかなえる分しか栽培していない。搾り取られるのが明々白々の運命である階層が、無関心、無気力、無感動の底に沈みこんでしまうのはむりからぬことである」(同書)。
「朝鮮じゅうのだれもが貧しさは自分の最良の防衛手段であり、自分とその家族の衣食をまかなう以上のものを持てば、貪欲で腐敗した官僚に奪われてしまうことを知っているのである。官僚による搾取が生活の必要物資をまかなう分にまでも不当におよび、どうにも耐えられなくなってはじめて、朝鮮人は自力で不正をただす唯一の手段に訴えるのであり、これは清国の場合と似ている。その手段とは許すべからざる醜悪なその郡守を追い払ったり、場合によっては殺してしまうことで、最近評判になった事件では、郡守の側近をまきを積んだ上に乗せて焼き殺すというのがあった」(同書)。
「このような動きは朝鮮半島では毎年春になると見られるできごとではある。二、三の地方で官僚による搾取に怒った農民が蜂起し、多かれ少なかれ暴力を用いて(死者が出ることもある)気に入らない役人を追い払ってしまうのである。処罰はめったに行われない。国王はべつの官僚を送り、あらたなその役人はまた農民から搾取し、搾取ががまんの限度を越えると実力行使で追い払われ、ふたたびふりだしにもどる」(同書)。
朝鮮にとっては、ほとんど無為の10年が過ぎた1894年、甲午農民戦争(東学党の乱)が起きた。「全羅道古阜郡で郡守が水税の横領を起こし、その横領に対して全羅道観察使に哀願を行った農民が逆に逮捕される事件が起きた。この事件により、東学党二代目教祖の崔時亨が決起し、甲午農民戦争に発展した」(Wiki)。
「この民乱の指導者たちを含め農民の多くが東学に帰依していたことから、この東学の信者を通じて民乱が発展してゆく。(中略)1894年5月末には道都全州を占領するまでに至った。これに驚いた閔氏政権は、清国に援軍を要請。天津条約にもとづき、日清互いに朝鮮出兵を通告し、日本は公使館警護と在留邦人保護を名目に派兵し、漢城近郊に布陣して清国軍と対峙することになった」(同)。
「同じ年に、日英通商航海条約を結び、日本は列強の一角を味方につけることができたので、日本は清に対して宣戦布告をして、日清戦争が勃発しました。ちなみに、このイギリスと日本が結んだ条約によって、領事裁判権はなくなり、関税自主権が一部回復し、片務的最恵国待遇も解消され、不平等な関係が少し無くなりました」(不詳氏)。
『検定版 高等学校韓国史』は、何かといえば「外勢の経済侵奪で~」と言うが、日本は、関税自主権がなく、領事裁判権、片務的最恵国待遇の下でも、当時の世界で大国とみなされていた清国と戦える体制を歩一歩整えたのである。
ところが、朝鮮では、「最近守令が官職を旅館のように考え、帳簿はすべて衙前に委任してわいろを受けとることに専念している。ひどい者は民にわけもなくごり押して金を奪う。家や土地の税金を増やし、場市や入り江に税を新設してついには民が暮らしていけなくなる。最近民が食べていくのも難しくなったのは、土地と家にかけられた税金が毎年増えるからだ。・・・民乱があちこちで起こるのはすべてこのためで、三南が最も激しい」(明石書店刊『検定版 高等学校韓国史』168ページ:『備辺司謄録』1892.1.27)。
しかも、(繰り返すが、前記にもあるように)「近代的産業の保護育成のための確固たる意志が不足し、十分な財政および有能な実務層」も皆無だったことが問題なのだ。
【参考】
「東学は、1860年に慶尚道慶州の没落両班・崔済愚(チェジュウ)が創始した天人一如を宗旨とした『朝鮮教』であった。1860年前後に高まっていた社会的危機感を受け、民衆的基盤に拠る啓示として現れた。初代教祖は異端の罪で1864年に処刑された」(萬 遜樹)。
「二代目教主だった崔時亨は1898年3月、江原道で捕らえられ、同年6月、処刑された。東学党教祖は孫秉煕が引き継ぎ、1905年12月『天道教』を宣布した。(中略)2010年代現在、韓国には天道教の教会がおよそ100ヶ所あり信者数は10万人を数える。また北朝鮮には280万人の信者がいるとされ、天道教青友党という政党が朝鮮労働党の衛星政党として存在する」(Wiki)。
【参考】
「韓国・李首相は2019年5月11日、ソウルの光化門広場で開かれた第1回東学農民革命記念式に参加し、記念演説を通じて『東学農民革命は韓国5,000年の歴史で最も長く、最も広い地域で、最も多くの血を流した民衆抗争だった』と明らかにした。
李首相は『内容や規模でも西欧の近代革命に決して引けを取らない』とし、東学農民革命が韓国で最初の反封建民主主義運動、最初の近代的改革運動、最初の反外国勢力民族主義運動だったと意味を付与した」(韓国紙)。
【参考】
「同時代の人々からは『邪教徒』(黄玹)『妖鬼』(申采浩)『悪民』(崔益鉉)と言われ、あやしげな反社会的団体とみなされていた。外侵に抵抗した実績はとくになく、のちには日本に接近し、日本の浪人集団『天佑侠』の支援を受けている。政府の圧迫から逃れる方便だったともいうが、東学党を母体に一進会が生まれ、教団幹部がその指導部に横すべりしたことは、まぎれもない事実である」(『韓国「反日主義」の起源』)。