断章77

 「世継ぎ問題などで興宣大院君と権力争いをしていた閔妃(第26代・高宗の妃)は、1873年、興宣大院君を追放し、大院君とその一派を失脚させた。そして自分の一族(閔氏)を高官に取り立て、政治の実権を握った。(中略)興宣大院君は隠居させられたが、閔妃を国家存続を脅かすものとして政局復帰、閔妃追放の運動を始め、それが朝鮮末期の政局混乱の一因にもなった。両者の権力闘争は敵対者を暗殺するなど熾烈なものとなった。(中略)双方で暗殺が続いて国内が乱れた。」(Wiki

 「興宣大院君失脚以降、閔妃は西洋に対しては好意的な態度を示し、鎖国・攘夷政策を捨てて、開国政策を取り、日朝修好条規をきっかけとし、朝鮮の門戸開放を進めた。」(Wiki

 1876年、ともあれ開国した朝鮮は日本と清に外交使節や留学生や視察団を送り、情報収集を行なって近代化策を学び始めた。また、日本の要求で1876年に釜山、1880年に元山、遅れて1883年に仁川を開港した。

 なお、『検定版 高等学校韓国史』は、「 Ⅳ 7. 開港後、社会・経済が変化する」で、「開港場で活動する日本商人は日本貨幣の使用権、輸出入商品の無関税、領事裁判権などを認めた不平等条約を土台に略奪的な貿易活動をした。」と決めつける。だが、ここには一方的な“略奪的”という宣告があるだけである。

 教科書がすぐ後で、「(朝鮮の)地主は販売する米を確保するために小作地の移動や小作料の引き上げなど、小作条件を悪化させ、米を売って得た利益で土地を増やしていった(引用者注:つまり、地主は儲けていた)」。政府の開化政策は、「近代的産業の保護育成のための確固たる意志が不足し、十分な財政および有能な実務層がなく、期待したほどの効果を得られなかった」と言うのは、語るに落ちるであろう。

 日本は欧米との不平等条約下(不利な条件下)においても着実に経済発展へと踏み出した。なぜ韓国が日本のような道筋をたどることができなかったのか、それは以下で明らかになる。

 

 「閔妃は大院君の改革を差し戻すかのように、儒学者の支持を得る為に財政的に弊害となる書院を復設させ、各党派及び有能な人材を官職につけさせる人事行政をやめさせ、閔妃の重用する人物が要職に就くことになったので、大院君の政策によって官職に就いた者は官職を追われ、大部分の両班は失望し、これに対し、成均館儒生及び八道の儒生は王宮に押し寄せ、閔妃を非難する」「ちなみにこの頃の閔妃は、・・・元子(世子の冊封前の称号)を出産したので、巫堂ノリという儀式などを毎日行わせ、その額は国家予算の数倍にも及び・・・、各省庁の公金を使用し、貪官汚吏どもは競って閔妃に財物を献上しており、おかげで国庫は破綻」(Wiki)した。

 

 1882年には、興宣大院君らに扇動された軍人・民衆が、壬午軍乱と呼ばれる暴動を起こした。

 なお、『検定版 高等学校韓国史』は、「開港後、日本に米や豆が大量流出して米価が暴騰したため生活が苦しくなった下層民までがこれに加わり」と、当時の米価暴騰を日本の責任にしているが、この当時、日本・朝鮮間の貿易はまだ限られたものだったので(それは、明石書店刊・当該教科書153ページにある朝鮮の「輸出入額と重要出入品の割合」をみても明白)、こじつけである。王朝の放漫支出により破綻した国家財政を糊塗するための悪貨鋳造が、当時の米価高騰の原因である。

 「壬午軍乱は、清国軍が、乱の首謀者で国王の父・興宣大院君を拉致して中国に連行したことで収束した。復活した閔氏の政権は清国の制度にならった政治改革をおこなった。朝鮮はまた、清国軍3,000名、日本軍200名弱の首都漢城(現ソウル)への駐留という事態を引き受けざるを得なくなった」(Wiki)。

 しかも、「軍乱後に王宮にもどった閔妃は潜伏していた忠州で知り合った巫女を王室の賓客として遇し、厚く崇敬して毎日2回の祭祀を欠かさないほどであった。閔氏一族や政府高官も加わった祭祀は、やがてこれにかかる費用は莫大なものとなった。朝鮮全土の宗教者も王宮に集まってこれを占拠する状態となり、売官が再流行して朝鮮半島の政治はいっそう混迷の度を深めた」(同)のである。

 搾取は相変わらずである。「わかりやすく説明するために、南部のある村を例にとってみる。電信柱を立てねばならなくなり、道知事は各戸に穴あき銭100枚を要求した。郡守はそれを200枚に、また郡守の雑卒が250枚に増やす。そして各戸が払った穴あき銭250枚のうち50枚を雑卒が、100枚を郡守が受け取り、知事は残りの100枚を本来この金を徴収した目的のために使うのである」(『朝鮮紀行イザベラ・バード)。

 

 このような状況を見た急進開化派の金玉均らは、閔妃を追放しない限り朝鮮の近代化は実現しないとして、1884年に甲申政変と呼ばれるクーデターを実行した。親清派勢力(事大党)の一掃を図り、日本軍150名の援助で王宮を占領し新政権を樹立したが、袁世凱率いる清国軍1,300の介入によって3日で失敗した。

 『検定版 高等学校韓国史』は、「支援を約束していた日本軍は撤収してしまった」とさりげなくディスっているが、ウィキペディアによれば、「日本軍150名だけで清国兵1,300名と戦わざるをえなかった。しかし、日本兵は奮戦し、日本側の犠牲者は死者1名、負傷者4名であったのに対し、清国軍の戦死者は53名を数えた。多くの清国兵士は気勢をあげて威嚇するのみで、交戦を避けて王宮各所に放火、略奪行為に走った」のであり、衆寡敵せず、撤退したのである。

 

 朝鮮の近代化運動は頓挫し、高宗・閔妃たちの朝鮮は、あるときは清、あるときはロシアと、“事大主義”のまま時代に流されていくことになる。

 

【参考】

 「1894年、金 玉均は上海で刺客に暗殺された。金玉均の遺体は清国軍艦・威靖号で朝鮮に運ばれて凌遅刑に処されたうえで四肢を八つ裂きにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手及片足は慶尚道、他の手足は威鏡道で晒された。」「凌遅刑とは、清の時代までの中国や李氏朝鮮の時代までの朝鮮半島で行われた処刑方法のひとつ。存命中の人間であれば、その肉体を少しずつ切り落とし、長時間にわたり激しい苦痛を与えて死に至らす処刑方法である」(韓流歴史ドラマも描きたくないだろうな)。

 「政変に参加した独立党員の身内には 『族誅』が適用され、従者や幼い子どもたちも含む家族が残忍な方法で処刑された」(Wiki)。