断章51

 150年ほど前の明治維新後、日本や東アジアをめぐる国際環境が激変するなかで、岩倉使節団を欧米に派遣した。岩倉使節団は、政府首脳や各省の官僚から構成され、多数の留学生も伴い、その数は総勢約150名に及ぶ。当時の先進国・欧米をモデルとして、日本は近代国家に進んだ。

 70年ほど前の敗戦後は、圧倒的な物量と軍事技術で日本を圧倒したアメリカをモデルとして、日本は焦土から復興した。

 だが、今日の国際的国内的な問題(対立)の拡大と激化を前にして、もはや世界の何処にも習うべきモデル(お手本)が無いのである。

 

 すると当然、「国家は立ちすくみ、個人は不安をかかえる」ことになり、『不安な個人、立ちすくむ国家』(経産省若手官僚が問いかける、日本の未来。150万ダウンロードを記録した資料を、補足を含め完全版として書籍化。20~30代の官僚たちが現代日本を分析した未来への提言)のような本が出版される。但し、アマゾンの書評点数は誠に辛い。

 「問題はとっくにテレビや報道で伝えられている内容を寄せ集めたもの。出口戦略に具体性が無く、失敗する人の典型だ。これは街頭で無料で配るようなレベルの内容の本だ」とか、「評判なので期待して読んだが見事に裏切られた。これが真剣に本気で書かれた内容なら、日本の将来は暗い。ガダルカナルと同様の『戦力の逐次投入』若しくは無謀なインパール作戦の二の舞となり、何もかも手遅れになるであろう」という評価である。

 

 それでは、もし20世紀であれば、高々と“社会主義”の旗を掲げたはずの連中は、この21世紀の国際的国内的な問題(対立)の拡大と激化に対して、どんな戦略を持ち合わせているのだろうか。

 

 1991年のソ連邦崩壊後、“国際共産主義運動”は総崩れとなった。

 ロシアと距離的に近いヨーロッパでは、ロシア革命国際共産主義運動の実際の姿は、早くから知られていた。エスエルやメンシェヴィキの亡命者もいたし、あのローザ・ルクセンブルクは、新たに制定されたソヴェト憲法で「自由な秘密投票の権利が否定されていた」のを見て息が止まるほど驚いたらしい。

 “現代経営学”あるいは“マネジメント” の提唱者であり自らを“社会生態学者”と名乗ったピーター・ドラッカーは、1939年発刊の処女作『“経済人”の終わり―全体主義はなぜ生まれたか』で、「独ソ同盟の可能性のほうが悪夢として現実化しつつある。今日は悪夢にすぎないものも明日には現実となる。あの政権は、理念的にも社会的にも似ているがゆえに手を結ぶ」と、当時のソ連邦をすでに“全体主義国家”と喝破していたのである。

  彼は後に、こう言っている。「私はこの『経済人の終わり』において、スターリン主義を醜悪な恐怖と暴虐として描いた。その結果、その後長い間、私は善意の進歩的知識人から憎しみを買うことになってしまった」(『すでに起こった未来』)。

 

 “日本の共産主義運動”は、第一に、あまりにも評判の悪い“社会主義”“共産主義”の旗を隠して“人権派”を装うこと。第二に、多くの新設大学の教壇に逃げ込むこと。第三に、『資本論』のスコラ的訓詁解釈に閉じこもることで生き延びてきた(『資本論』についての衒学的な議論は、自称「知識人」リベラルたちの売文渡世にも好都合だった)。

 

 「ブーメラン ブーメラン ブーメラン ブーメラン きっとあなたは戻ってくるだろう♪」と、マルクスを心の支えに生きてきた連中は、今日の国際的国内的な問題(対立)の拡大と激化を背景に、「マルクスの理論は論駁されていない。それはようやく今日その歴史的な真理価値を復権する」と、またぞろ“懐メロソング”を合唱しようとしているが、また「見果てぬ夢」に終わるだろう。なぜなら、“現実の諸問題”の分析・診断においてエマニュエル・トッドひとりにも及ばなかったのだから。

 

 マルクスは資本制生産様式の解剖図を完璧なまでに体系化したが故に、弟子たちはマルクスの理論を“教義”として受けとめた。

 「マルクス主義は真理であるがゆえに全能である」(レーニン)は、「カトリック(語源はギリシア語の普遍的)」の「一切の間違いのない100%正しい教え」とまったく同じスタンスなのである。

 だからマルクスは、「わたしはマルクス主義者ではない」と言ったのである。