断章35

 「死せる孔明生ける仲達を走らす」

  そして、「死せる魯迅が生ける近平を走らす」日は来るか。

 『林彪事件習近平』(古谷 浩一)を読んだ。

 

 「もし、今も魯迅が生きていたなら、何を思うだろうか。中国の友人にそんな話をすると、過去に同じような質問を、毛沢東が受けたことがあると教えてくれた。1957年、上海で開かれた文芸関係者らの座談会でのことだそうだ。出席者からの問いに対し、毛沢東は、あっけらかんとした調子で答えたという。『(魯迅が生きていれば)牢獄に入れられ、そこで書き続けているか、あるいは何も言わなくなっているかだな』

 出席者の一人だった作家の黄宗英は2002年に発表した文章でこのやりとりを紹介し、『震えを感じた。思い出すと血のめぐりが変になる』と振り返っている。

 毛沢東は分かっていたのだろう。魯迅が生きていれば、将来、その批判精神は共産党政権にも必ず向かってくるであろうことを。そして、共産党はそうした魯迅を許さないことを。だから、毛沢東は、あくまで過去の人物として魯迅を評価し、利用し続けた」(185頁)。

 

 「1950年代の中国では、・・・毛沢東大躍進運動によって農業が壊滅的な打撃を受け、膨大な数の餓死者が出た。(中略)

 こうしたなか、(共産)党の指導者たちは表向きは共産主義をストイックに唱えながら、自分たちは特権を利用して、庶民の暮らしとはかけ離れた優雅な生活をこの避暑地(北戴河)で送っていた」(105頁)。

 

 同じ頃、「特権的な幹部の子弟たちは、北京にある寄宿制の小中学校で学んでいた。北京大学清華大学のある学園地区にあって、敷地は20万㎡、校舎の延床面積は3万5千㎡という広大なもの。庭園、果樹園、動物園、給食用のミルクを供給するための牛舎。さらにシャワー室やプールなども完備しており、当時としては世界有数の近代的な学校だった」(矢板 明夫)。

 そこには少年・習近平もいた(文化大革命で父親が失脚するまで)。

 

 1965年にソ連共産党の病院で治療を受けた児童向けの詩人、コルネイ・チュコフスキーは、「共産党中央委員会の家族は、自分たちのために楽園を建てたが、他の病院のベッドにいる人たちは、飢えて汚れ、まともな薬すらなかった」と日記に綴っているが、その完全な中国版である。

  「死せる魯迅が生ける近平を走らす」日は来るか。