断章358

 「いかなるものに突き動かされているのかを知ることによって、人は初めて自由になれる」(E・トッド)。それは、“飽くなき欲望”である。

 但し、「左翼」インテリのように、この“飽くなき欲望”を、あたかも道学者(注:道徳にとらわれ、世事人情にうとく融通のきかない学者を軽蔑していう語)よろしく眉をしかめて否定することは誤りである。

 というのは、この“飽くなき欲望”は、生物としての、生存と生殖に対する“飽くなき欲望”に根拠をおく、人間(ヒト)の普遍本質だからである。問題は、この“際限のない飽くなき欲望”という奔馬の御し方にある。もちろん、お祈りや只管打坐(しかんたざ)、あるいはプロレタリア社会主義革命なるものが、役に立ったためしは無い。

 

 世界的な資産バブルあるいは中国の不動産バブルへの警鐘は、鳴らされ続けてきた(ヒトの“飽くなき欲望”の象徴としても語られてきた)。しかし、それを横目にバブルは膨らみ続けてきた(何しろ余った金の運用先は限られているのだ)。

 しかし、ここ最近のマーケットは、きな臭い。というのは、アメリカのマーケットが、連日、急騰・急落しているのである。これは、いわゆる末期の「天井波乱」なのか? これはバブル崩壊の序曲なのか?

 

 「名実ともに10月相場入りとなった東京市場だが、日経平均は大きく売り叩かれ2万9000円台も一気に割り込んだ。1日の東京株式市場は、日経平均が一時700円を超える下げに見舞われ、嵐のなかでのスタートを余儀なくされた。前日の米国株市場ではNYダウが546ドル安に売り込まれたが、週前半にもダウは570ドル弱の下げをみせており前途多難の10月相場を想起させていた。

 9月29日に東京市場は大きくバランスを崩し、日経平均は639円安で3万円大台から転げ落ちた。そしてリバウンドに転じることもなく、1日は下げ足を再び加速させ早くも“次の道標”である2万9000円ラインをも大きく割り込んだ。大引けは前日比681円安の2万8771円で着地。9月14日に3万670円と31年ぶりの高値をつけたばかりだが、そこから2週間余りで2000円近くも水準を切り下げる羽目となった。

 米国では新型コロナウイルス感染拡大による経済活動への影響を警戒するステージから、今はインフレ襲来を警戒するステージへと既に舞台は大きく回っている。FRBを筆頭に世界の中央銀行による超緩和的政策によって生み出された過剰流動性、そして世界中が挙(こぞ)って脱炭素化への取り組みを加速させたこと、この2つが資源価格の押し上げ要因となりコストプッシュインフレをもたらした。更にサプライチェーンの混乱という供給側の都合で商品の品薄感が価格に転嫁される事態に陥った。一方、コロナ禍で雇用については回復がままならない状況下にある。これが需要なき価格上昇、いわゆるスタグフレーションに対する恐怖と化して米国株市場に覆いかぶさっている。(中略)

 そして、この米国リスク以上に投資家の不安心理を揺さぶっているのが中国リスクだ。中国不動産大手・恒大集団の債務不履行から破綻に至るとの懸念については、くすぶっているというレベルではなく発火寸前の状態にある。今週9月29日には恒大傘下の地方銀行である盛京銀行の一部株式を日本円にして約1700億円相当で売却、買い取り先は政府系国有企業で実質的な中国当局の救済にも見えるが、恒大の負債総額は33兆円あまりとされ、この保有株売却が経営危機回避につながる光明となるとはとても思えない状況だ」(株探トップニュースを抜粋)という。

 

 「予兆は確かにあった。だが、誰もが軽く見ていた。スイス運用大手のピクテ・アセット・マネジメント。7月末のグローバル会議の直前、『中国が学習塾の新規上場を禁止する』と伝わった。

 市場経済からの転換ともとれる動きに、中国への投資を巡る議論が白熱。『上海株は中国の個人が多く保有する。株安で困るようなことはしないはず』『いや、これは経済の構造転換だ』。このとき、結論は出なかった。

 9月中旬に不動産大手の中国恒大集団の経営危機が表面化。直後の会議でも中国の投資環境を議論した。『長期的に中国の成長率が下がる可能性を市場は過小評価している』。ピクテ日本法人の松元浩グローバル資産運用部長はこんな感想を抱く。

 株高の局面が転機に差しかかっている。9月の米連邦公開市場委員会FOMC)で金融政策正常化の道筋が示されたことで米長期金利が上昇。9月のダウ工業株30種平均は月間で4.3%安と、下落率は20年10月以来11カ月ぶりの大きさだ。不安定なマーケットの起点は中国発の問題だ。

 『灰色のサイに備えねばならない』。中国の習近平(シー・ジンピン)国家主席はたびたび発言してきた。存在するが軽視されがちなリスクを指す灰色のサイの例えには、不確実な世界経済のなかで中国が成長するために細心の注意を払うべきという意味が込められていたはず。だが、厳しい規制で、おとなしいはずのサイが動き始め、世界の投資家は身構えている。

 習指導部は広がる格差に対する国民の不満を抑えるため、社会全体で豊かになる『共同富裕』の目標を掲げ、様々な業種をやり玉に挙げる。その1つが不動産だ。価格上昇が続き、日本のバブル期にも似た『土地神話』が出来上がった。困るのは一般市民だ。東京財団の柯隆主席研究員は『結婚のためにはどんなに高くても家を持たざるを得ない。市民の生計はギリギリ』と語る。(中略)

 大手IT(情報技術)企業への締め付けも強まる。アリババ集団は9月、2025年までに1000億元(約1兆7000億円)を投じ『共同富裕』を支援する方針を示した。巨額の収益を株主ではなく国家に還元するのは民間の上場企業の論理を逸脱している。(中略)

 SMBC日興証券などでエコノミストを歴任したAISキャピタルの代表パートナー、肖敏捷氏は『中国では政治が経済に優先する。〈経済に大ダメージとなることはさすがにしないだろう〉という考えは通用しない』と警鐘を鳴らす。(中略)

 社会全体で豊かになろうという『共同富裕』の考え方は、階級格差が存在しないはずの社会主義の核となる概念だ。だが、この目標を掲げた毛沢東文化大革命で社会を混乱させた。(中略)

 中国の経済成長を支えた『改革開放』路線は、格差を広げる副作用ももたらした。李克強(リー・クォーチャン)首相は昨年、中国の人口の4割にあたる6億人が月収1000元(約1万7000円)で生活していると明らかにした。半面、中国恒大集団の創業者、許家印氏や、アリババ創業者のジャック・マー氏などの富豪も目立つようになった。クレディ・スイスによれば、不平等の度合いを示す中国のジニ係数は70.4と、過去20年で10㌽拡大。拡大幅は調査対象の主要国の中で最大だ」(2021/10/02 日本経済新聞日経ヴェリタス2021年10月3日号からの転載の引用・紹介)。

断章357

 「植物栽培と家畜飼育の開始は、より多くの食料が手に入るようになることを意味した。そしてそれは、人口が稠密化する(引用者注:すき間もろくに無いほど多く集まる)ことを意味した。植物栽培と家畜飼育の結果として生まれる余剰食料の存在、また地域によってはそれを運べる動物の存在が、定住的で、集権的であり、社会的に階層化された複雑な経済的構造を有する技術革新的な社会の誕生の前提条件だったのである。

 したがって、栽培できる植物や飼育できる家畜を手に入れることができたことが、帝国という政治形態がユーラシア大陸で最初に出現したことの根本的な要因である。また、読み書きの能力や鉄器の製造技術がユーラシア大陸で最初に発達したことの根本的な要因である。他の大陸では、帝国も読み書きの能力も、そして鉄器の製造技術も、その後になるまで発達しなかった。あるいはまったく発達しなかった。その根本的な要因もまたここにある」(『銃・病原菌・鉄』)。

 

 例えばウマ(馬)を見てみよう。

 「ヒトは、古い時代からウマを捕食し、あるいは毛皮を利用していたことが明らかにされており、旧石器時代に属するラスコー洞窟の壁画にウマの姿がみられる。

 原種ウマは、原産地の北アメリカを含め、人間の狩猟によりほとんど絶滅した。

 紀元前4,000年から3,000年ごろ、すでにその4,000年ほど前に家畜化されていたヒツジ、ヤギ、ウシに続いて、ユーラシア大陸で生き残っていたウマ、ロバの家畜化が行われた。

 これは、ウマを人間が御すために使うタヅナをウマの口でとめ、ウマにタヅナを引く人間の意志を伝えるための馬具であるハミ(銜)がこの時代の遺物として発見されており、ハミは、・・・馬の家畜化を判断する指標として活用されている。同じく紀元前3,500年ごろ、メソポタミアで車輪が発明されたが、馬車が広く使われるようになるのは紀元前2,000年ごろにスポークが発明されて車輪が軽く頑丈になり、馬車を疾走させることが出来るようになってからである。

 馬車が普及を始めると、瞬く間に世界に広まり、地中海世界から黄河流域の中国まで広く使われるようになった。これらの地域に栄えた古代文明都市国家群では、馬車は陸上輸送の要であるだけではなく、チャリオット(戦車)として軍隊の主力となった。(中略)

 一方、メソポタミアからみて北方の草原地帯ではウマに直接に騎乗する技術の改良が進められた。こうして紀元前1,000年ごろ、広い草原地帯をヒツジ、ヤギなどの家畜とともに移動する遊牧という生活形態が、著しく効率化し、キンメリア人、スキタイ人などの騎馬遊牧民黒海北岸の南ロシア草原で活動した。騎馬・遊牧という生活形態もまたたくまに広まり、東ヨーロッパからモンゴル高原に至るまでの農耕に適さない広い地域で行われるようになった。彼ら遊牧民は日常的にウマと接し、ウマに乗る技術を発明することによって高度な移動・機動の能力を獲得し、ウマの上から弓を射る騎射が発明されるに至って騎馬は戦車に勝るとも劣らない軍事力となった。遊牧民ではないが、紀元前8世紀にアッシリアは、騎射を行う弓騎兵を活用して世界帝国に発展した」(Wikipedia)のである。

 

 「初期鉄器時代における官僚的な軍隊経営の技法の最も熟達した使い手は、歴代のアッシリア王であった。アッシリアは画期的な軍隊組織を発達させた。その内部では個々の構成員に階級(ランク)がつけられていて、階級を知れば自動的に誰が命令を出し誰が服従すべきかがわかるのであった。個々の兵士の装備の標準化、個々の部隊の構成の標準化、能力があれば登っていくことができる昇進の階梯など、軍隊経営ではおなじみの官僚機構的原理は、すべてアッシリアの王たちのもとで歴史に初登場したか、少なくとも標準化されたらしいのである。それと並行して整備された文官の官僚機構もまた、ある作戦のために貯蔵食糧を集めたり、遠距離間の軍隊の移動を容易にするために道路を建設したり、要塞を建設するために労働力を動員したりするのに力を発揮した。

 たしかに、アッシリアの行政上のパターンの多くには紀元前第3,000年紀にまでさかのぼる先例があったが、しかし、それらを定番化したのはアッシリア人なのである。(中略)

 私は次のように言っても誇張ではないと思う。

 その後の文明世界の大部分において、帝国的権力を行使するために用いられ、19世紀まで標準でありつづけた基本的な行政機構は、アッシリア人のもとで前935年から前612年の間に、史上初めて明瞭な輪郭をあらわしたのである。それに加えて、アッシリアの歴代の征服王たちは、軍隊の新しい装備や編成方法を開発する面でも、かなりの創意工夫を見せた。たとえば彼らは、城塞化した都市を包囲攻撃するための、精巧複雑なさまざまな装置を発明し、征服遠征には攻城機械を積んだ輜重隊をひきいていくのがあたりまえであった。総じて、アッシリアの軍事行政全体は徹底した合理性に貫かれていて、そのことが彼らの軍隊を、それまでにこの世に現れた最も強力で最も規律にすぐれたものとしたのである」(ウィリアム・H・マクニール)。

―― 旧日本軍の失敗の本質の一端を垣間見る思いがする。

断章356

 物事には順序というものがある。なので、人類最古の文明というシュメル文明を少し詳しく見てみよう。

 

 「周囲が開けているメソポタミアでは異民族の侵入が繰り返された。メソポタミアが不毛な土地であったならば、誰も侵入しない。穀物のよく実る、豊かな土地であるメソポタミアなればこそ誰もが住みたがった。また富を生み出す交易活動にはティグリス・ユーフラテスの両河とペルシア湾を結ぶ交通路が利用できた。西アジア世界全体を眺めたときに、交通の要衝としてのメソポタミアが占める重要性は、B.C.4000年紀後半からB.C.3000年紀のシュメル人が活躍した時代も、前4世紀にアレクサンドロス大王がやってきたときも、そして現在も共通している」。

 「シュメル人は『謎の民族』である。シュメル人はどこからやってきたかわからない。しかし、シュメル人はB.C.4000年紀後半にはメソポタミア南部のシュメル地方に登場し、B.C. 3000年頃には人類最古の都市文明が開花していた」。

 例えば、「最古の文字はシュメルで生まれた。現在わかっている最古の文字はB.C.3200年頃の絵文字であり、ウルク古拙(こせつ)文字といわれている。それは、物の数量及び種類を表すためのトークンと呼ばれる粘土の道具から発達したといわれている」。

 「B.C.3200年頃にウルク市で発明された文字が整備され、完全な文字体系に整えられるのはB.C.2500年頃である。ウルク古拙文字は表語文字であったが、この頃になると表音文字も登場する。文字の数も約600に整理され、シュメル語が完全に表記されるようになった」(『シュメル ―― 人類最古の文明』から引用・再構成)。

 

 「シュメル人は多数の都市国家を形成し、これらは長期にわたり分立していた。歴史の多くを通じて都市国家が強い自律性を維持していたことはシュメルの政治文化の大きな特徴である。シュメルの都市国家が割拠した初期王朝時代はおよそ900年あまりも続き、ルガルザゲシやサルゴンといった王たちによって領域的な支配がなされるようになっても都市国家的な伝統は強固に残存し続けた。

 シュメルの都市国家の中でも早期に大規模に発達し、しばしば『最古の都市』とも呼ばれるのがウルクである。ウルクはB.C.4000年紀後半にはすでに都市の基本的な要件を備え、政治的・宗教的中心性を備えた発展を遂げた。シュメルの都市国家は中心部に都市神の住居となるべき神殿を持っていた。理念的には都市神こそが都市の所有者であり、都市国家を治める王は神に代わって地上を統治する代行者であるという王権思想が普及していたことから、神の住居である神殿の建設、修繕は王のもっとも重要な責務のひとつであった」(Wikipedia)。

 

 「初期王朝時代の王の務めは、まず、戦争での勝利、つまり外部からの攻撃に対して自らの都市国家を守ることであり、一方内政については豊穣と、さらに安定を維持することであった。安定を維持するためには、神々の定めた秩序を維持し、弱者救済に努めて、市民へ『自由』を付与することが王に求められた」。

 「シュメル社会は身分制社会であり、奴隷がいた。奴隷はその所属で分ければ、個人の家で働く家内奴隷と神殿、宮殿などの組織に所属する公的奴隷がいた。またその出自からは四つに分けられる。まず、市民が負債を負った結果として落ちる『債務奴隷』がいた。次に、犯罪への罰として落とされた『犯罪奴隷』が挙げられる。また、外国から商人によって買われてきた『購入奴隷』もいた。さらに、戦争に敗北したために奴隷にされた『捕虜奴隷』がいた」。

 「王は債務奴隷を解放することと並んで、未亡人や孤児のような社会的弱者を庇護(ひご)することで、神々が定めた本来あるべき姿に都市を戻し、安定をもたらすことに努めた」(『シュメル ―― 人類最古の文明』から引用・再構成)。

 

 そして、〈文明〉には強力な伝播力がある。

 「ある人間集団が、ある特定の時点において他の人間集団に影響を及ぼすのは、相対的な優位を保持しているからである。いくつもの地域の住民について研究する歴史家の念頭に最初に上がる優越性の要素とは、農耕である。農耕それ自体も、粗放な形態から集約的形態へといくつもの序列がある。農耕の獲得は、巨大な人口の出現を可能にし、それはそれ自体で支配の要因となる。農耕に次いで、都市、青銅、鉄、文字が到来する。

 『文明』の四つの基本要素(農耕、都市、冶金、文字)は、それぞれそれ自体に本質的に内在する拡大の潜在力を秘めていることは認めなければならない。

 歴史の現実においては、農耕によって人口密度が増大し、都市と文字によって組織立てられ、技術的・軍事的に強力になった民族は、周辺の人間集団に影響力を揮い、取って替わることができた。その上、淘汰が起こらなかったところでは、これらの民族は、自分たちの成功の元となったもの(農耕、都市、冶金、ないし文字)ばかりでなく、どれもがより多くの効率性に結びつくと先見的に想定してはならないような他の革新も、被支配者たちに伝えることがありえたのである。支配者がもたらした社会形態であるという威信だけで、それらの要素が受け入れられてしまったことは説明できる」(E・トッド)。

断章355

 わたしたち人間とは何であるか? わたしたちの歴史とは? そしてわたしたちの住む世界とは?

 ここまでおおざっぱながら、人類史の99%以上を占める、およそ700万年~600万年前の遙かな過去からB.C.3000年頃までを振り返ってきた。

 人間(ヒト)は、協力・協同して捕食者や別集団と戦い続けて、生存・生殖のイバラの道を切り開いてきたのである。「定住」と農耕・牧畜の生業(なりわい)がもたらした〈余剰〉は、人口を増大させた。農耕社会の生産基盤は、土地である。治水灌漑と戦争によって、農耕地を拡大・侵掠するようになった。そのために、バンド社会、首長制社会とは質的に異なる「国家」が生まれたのである。

 

 もちろん、「古代国家」は、「脆弱で、戦争や疫病だけでなく、集中的な灌漑農業や森林破壊による洪水、土壌の塩類化などで穀物の収量が低下し、かんたんに崩壊した」(スコット)。

 また、理論的にみても、「生まれたばかりの歴史的国家(古代国家)には、一方で、国家の国家たる所以の特質、つまりは概念的に把握するべき国家の本質が、内在している。と同時に他方で、この国家の内在的本質は、未だその固有の諸契機を開花させてはいない。

 この国家の内在的本質が、本質的構造に関わる特殊的諸契機を、全面的に開花発展させるのは、近代にいたる人間社会の歴史的・世界史的な進展過程においてである」(『国家論大綱』)。

 

 地政学的に有利な位置にあったエジプトと異なり、侵攻しやすく、かつ侵攻されやすいメソポタミアでは、戦争が繰り返された。「古代国家」では、人間と家畜の集積により疫病が蔓延し、時に大きな人口喪失があったが、「古代国家」は戦争による捕虜と、奴隷貿易による大規模な奴隷の買い付けで人口減を補った。

 

 「国家の軍隊が捕虜を殺害しないのにはわけがある。それは、国家には、食料に余力があって、捕虜を食べさせることができるからである。人的にも余力があって、人員を割いて捕虜を監視し、彼らに強制労働させることができるからである。しかし、伝統的社会にとっては、これはできない相談である。それゆえ、伝統的社会の戦士たちは捕虜を生かしておかないのである。そして、伝統的社会の戦士も、敵に捕まれば殺されることがわかっているので、敵に包囲され、負け戦が明々白々になろうと、降伏だけは絶対にしない。歴史学および考古学において、国家に捕囚が囲われたことを示す最古の証拠は、約5000年前の古代メソポタミア国家にみられる事例である。彼らはまず、囚人の両眼をくり抜き、視力を奪い勝手に逃げられなくしたうえで、囚人らに糸つむぎや畑作業といった指先の感触だけでできる仕事を強制労働として課して、囚人の労働力の活用という問題を実用的に解決していたのである」(『昨日までの世界』)。

断章354

 「裕福な家庭に生まれ、良質な教育を受けて、多様な進路を自由に選択できる環境にあった人もいれば、そもそもそのようなチャンスを与えられなかった人もいる。親の愛情に恵まれた人もいれば、酷い虐待を受けて育った人もいる。健康な身体をもった人もいれば、長く病に臥しがちな生活を余儀なくされてきた人もいる。それらはいずれも、いわゆる『自己責任』に帰すことができる事柄ではない」(古田 徹也)。

 

 「皆さんから寄せられた家計の悩みにお答えする、その名も『マネープランクリニック』。今回の相談者は、高齢のお母さんと2人暮らしの45歳パート勤務の女性。病気治療中のお母さんの医療費負担が大きく、貯蓄も少なく今後に不安を感じているとのこと。ファイナンシャル・プランナーの深野康彦さんがアドバイスします。

 ▼相談者

 あいさん(仮名)。女性/パート・アルバイト/45歳。東北/持ち家(一戸建て)

 ▼家族構成

 母(78歳)

 ▼相談内容

 正直、お恥ずかしい話ですが、何をしていいのかわからない状態です。母が病気になり、昨年入院しました。わずかな蓄えは病院への支払いで消し飛びました。現在は通院していますが、限度額適用認定証を使っても、私の収入からいくと医療費は大きな割合を占めます。医療費はこれ以上抑えられないでしょうし、母の体力維持のためにも食費はあまり削りたくありません。

 今後も母は入院することになりそうですし、病状や年齢を考えると、もしもの時のことも考えないといけないと思います。でも現在、そのための備えといえるものはなく、今口座にたまたま先月の給与が数万円残っているという感じです。

 小遣いの金額は医療費です。雑費には私の奨学金返済(減免してもらい月2万~3万円)を含みます。母の病気発覚以降、趣味は捨てました。母を失うかもしれない怖さで孤独が募り、数少ない友人との縁を切りたくなくて、月に1、2度会いに行くこともありましたが、これもやめるべきでしょうか。

 収入面で転職も考えましたが、悩みが次々と出てきて頭がいっぱいなせいか、私の思考能力や記憶力はかなり低下しています。一から新しい仕事を覚える自信がありません。また、今の職場は私の事情を理解してくれて、急な欠勤にも応じてくれますが、勤怠も覚えも悪い中年女を新しい職場が歓迎するとは思えません。なので転職はせず、深夜か早朝に副業をしようかと思っています。ただ、体力に自信がない(だから以前は勤務時間が短かった)ので、本業に更に迷惑をかけることにならないか不安です。

 今の私の生活は母の年金に頼る部分も大きいです。電気代は最近、私が払うようになりましたが、基本的に光熱費、ケーブルテレビ代、食費や日用品の購入の半分程度(恐らくこれらで月3万円ほど)、固定資産税は母が払っています。これも私が払っていくようにしたいのですが……。

 また、持ち家が老朽化していますが、修理するお金がありません。ローンで修理をしたいのですが、この収入、非正規雇用では難しいと思います。売却し賃貸に住むことも考えていますが、現状では家賃を払うのが厳しいです(家賃相場は最低5万円~)。公営住宅は訳あって申し込めません。家賃が安くても病院から遠いところには住めません。売却したお金で家賃を払うのは何だかおかしな話に思えますが、そうでもないのでしょうか。

 たった一人の家族である母を失ったら私は心の拠り所を失い、このままでは生きる手立ても失います。何のために、どうやって、生きるつもりなのかなと思っています。孤独やお金の不安をいつも感じながら、人様や行政に迷惑をかけながら、何年も生きていくのは耐えられなさそうです。母に苦労をかけず、これからも私たちが生きていけるお金の使い方はありますか」。

 

 ―― 個人的にできることがあれば何かしてあげたいような相談が多い『マネープランクリニック』である。下級国民で下流老人である、わたしに今できることは、なにか?

 これまで日本を主導してきた政・財・官の“既得権益層”の既得権益を守るための政治とは異なる、横柄な権力に屈することのない、貧しい同胞を見捨てることのない、〈救国救民〉の政治を探求することである。

断章353

 農耕と牧畜による食糧生産の増加と集約化による〈余剰〉は、それで養われる神官、戦士、職人などの分業・格差や人口増大を可能にした。それが、バンド社会から部族社会、部族社会から首長制社会への変化をもたらした。

 

 「首長制社会につづいて出現した社会は、紀元前3400年頃以降に、征服や高圧的な合併を経て登場した国家社会である。その結果、人口が増大し、ときに多様な民族を内奥するようになったほか、官僚の分野ごと、階層ごとの専門化が進み、常設の軍隊が整備され、経済活動の専門化や都市化やその他の変化がさらに進み、現代の世界全体に普及している社会が誕生した」。

 「人口規模の拡大、政治の組織化、食糧生産の集約化、小規模血縁集団から国家にいたるまで連続的に変化していくが、それと並行して変化したトレンドもあった。

 金属器への依存度の高まり、技術の洗練、経済活動の専門化と個人間の不平等、文字の発明、戦争、宗教などである(繰り返しになるが、小規模血縁集団から国家への発展はどこででも起きるわけでも、非可逆的でも、直線的でもない)。

 国家社会はこれらのトレンドのなかでも、とくに人口増加や政治の中央集権化、技術や武器の改良といった点で、国家社会に比べて単純な伝統的社会より進んでいたからこそ、それらを征服し、住民を服従させ、奴隷にし、国家に組み込んだり追放したりし、国家が欲する土地に住んでいた人々を根絶することができたのである」と、ジャレド・ダイアモンドは言う。

 

 なぜ、B.C.3400年頃以降に〈国家〉が登場したのだろうか? 

 それは、人口増大“危機”への対応のためだった。

 というのは、B.C.5000年以降の温暖湿潤な気候のもとで、恵まれた肥沃な農耕発生地には、急速な人口増加があった。需要に応じるためには、農耕地を拡大しなければならない。そのために大規模な“治水灌漑”が必要とされ、そのための民衆動員を可能にする新しいシステムが必要だった。

 さらに、「農耕地が拡大してゆくにつれ、潜在農耕地が減少し、やがて新たな農耕地の拡大が困難となり、単位面積あたりの農耕労働力が増加し、これが労働力の集約化を通じ土地生産性を上昇させる。(中略)

 しかし、農耕発生地域で潜在農耕地が開拓され尽くされ、労働力の集約化による土地生産性の上昇が限界に達しても、なお以前と同様の生活水準を維持しようとする場合には、周辺地域を侵略し、新たに農耕地を拡大する以外にない」(原 俊彦)。「縄張り」を拡大するための戦争に勝てる新しいシステムが必要だった。

 

 必要は、発明の母である。それまでに獲得されていた諸条件(文字など)を基盤に、大規模な治水灌漑や戦争のための新システムとして、〈国家〉が生まれた。

 

 まさに、「階層の違いがすでに存在し、貧富の差が非常に大きくなり、大多数の住民が、これまで通りの慣習的な仕方では、自分たちの諸要求を充足することができないという事態が現れる場合に初めて、ひとつの現実的国家と現実的政府が成立する」(ヘーゲル)。

断章352

 農耕・牧畜が生みだした〈余剰〉の力は、人間生活に劇的な変化をもたらした。それは、社会編成にも現われた。それについて、以下、『昨日までの世界』から長い引用・紹介をする。

 

 ジャレド・ダイアモンドは、「エルマン・サービスが人口規模の拡大、政治の中央集権化、社会成層の進度によって分類した、人間社会の四つのカテゴリーを折に触れて使っていく。それはすなわち、小規模血縁集団(バンド)、部族社会(トライブ)、首長制社会(チーフダム)、国家(ステート)である。(中略)これらの用語は人間社会がいかに多様かを論じるにあたって便利な、略式のものだ」と言う。

 

 「もっとも小規模で単純な社会は、数十人だけで構成され、ほとんどの成員はひとつあるいは複数の拡大家族に属する(たとえば成人した夫婦とそのどもたち、夫婦の両親や兄弟やいとこの一部など)。小規模血縁集団は人口が少ないため、成員の誰もが互いをよく知り、一堂に会しての議論で集団の合意ができる。正式な政治的指導者は存在せず、経済活動の専門化も見られない」。

 

 「小規模血縁集団がつぎに移行する社会は、サービスが『部族社会』と定義した社会であり、それはより規模が大きく形態もより複雑な、数百人の局地的な集団で構成される社会である。しかし、部族社会も依然として成員はだれもが顔見知りで、見知らぬ他人はいない程度に集団の規模が限定される。

 数百人規模の社会ということは、数十の家族がいて、それがときに氏族(クラン)という血縁集団にわかれる。氏族間では交換婚が行われていたかもしれない。部族社会は小規模血縁集団より人口が多いため、狭い地域でより多くの人間を養うためにはさらに多くの食物が必要になる。そのため部族社会はふつう農耕民または牧畜民、もしくはその両方を兼ねている。部族社会は定住する傾向があり、畑や牧草地や漁場の近くに作った村でほぼ一年中生活する。

 その他の点では、部族社会は依然として、規模が大きい小規模血縁集団によく似ている ―― たとえば、比較的、平等主義であること、経済活動の専門化が進んでいないこと、政治的指導者の存在が希薄であること、官僚がいないこと、一堂に会して意思決定をすることなどである。

 なかには弱いリーダーとして機能する『ビッグマン』が存在する部族社会もあるが、そのビッグマンはだれもが認める権威を持つわけではなく、人を説得する力や人柄の魅力で社会を導く」。

 

 「部族社会はつぎの段階として、数千人の人口を抱える、複雑に組織された首長制社会(チーフダム)へと移行する。首長制社会では人口が増えるうえに経済活動が専門化しはじめることから、食糧生産にたずさわらない首長とその親族や、官僚などの専門職を養えるよう、食料の生産性を上げて余剰作物を生み出し、それを貯蔵する能力が欠かせない。そのため、首長制社会では貯蔵施設を備え、人が定住できる村や集落を作り、その大半で農耕や牧畜により食料を生産していた。

 人口数千人の社会では、成員全員と顔見知りになったり、全員が一堂に会して議論したりすることは不可能である。その結果、首長制社会は、小規模血縁集団や部族社会にはなかったふたつの新たな問題に直面する。ひとつめは、首長制社会内の見知らぬ他人同士が互いに顔を合わせたとき、相手は個人的には知らないけれど同じ首長制社会内で暮らす同胞だと認識でき、なおかつ占有地を侵したかどうかで緊張が高まって争いに発展することがないようにしなければならない点である。そのために首長制社会では、共通のイデオロギーと、首長の神権的地位から派生した共通の政治的・宗教的アイデンティティを保持することが多くなる。ふたつめは、首長制社会には首長というだれもが認める指導者がいて、その首長が意思決定をし、みなが認める権威を有し、必要であれば社会の成員に武力を行使する独占的権利を持つ点である。首長はこれにより、同じ首長制社会に住む見知らぬ者同士で争いが起きないようにしている。

 首長を補佐するのはさまざまな業務を遂行する専門化していない役人(官僚の原型)で、貢物を集めたかと思えば争いを仲裁し、その他の管理業務もこなしていく。

 首長制社会における経済的イノベーションは、『再分配』である。個人が直接、物々交換をするだけではなく、首長が食料と労働という貢物を集め、その多くを首長に仕える兵士、聖職者、職人に再分配するのである。つまり再分配は、各種の新しい機関や制度を支える課税システムの初期形態といえる。また貢がれた食料の一部は庶民にも還元される。そのため、庶民は記念碑や灌漑設備などの建造において首長のために働き、首長は飢饉の際に庶民を支える道義的責任がある。首長制社会では、小規模血縁集団や部族社会では現れなかった政治的・経済的イノベーションに加え、制度化された不平等という社会的イノベーションのさきがけも現れた。部族社会の中にも特別な家系(リネージ)が存在した社会はすでにあったが、首長制社会ではその家系が世襲される。首長一族を頂点として、底辺に庶民や奴隷がおかれる。

 階級が高い家系の成員は、首長のもとに集まった貢物のおかげで食料や住居、特別な衣服や装飾品を得て、よりよい生活を送ることができた。

 考古学者たちは、首長制社会は紀元前5500年ごろまでには局地的に成立していたと推論している」。